浅野保(読み)あさのほ

日本歴史地名大系 「浅野保」の解説

浅野保
あさのほ

現浅野・千秋ちあき浅野羽根あさのはね辺りか。醍醐寺文書によれば文和二年(一三五三)七月の尾張国郷保地頭正税弁済所々注進状案に「浅野保 十五貫文 北野」とあり、北野きたの(現京都市上京区)地頭職を有していた国衙領である。同年八月一九日に醍醐だいご三宝さんぼう(現同市伏見区)の上使に年貢五〇〇文を納入している。

当保は、その後、上・中・下三保に分れた。応永四年(一三九七)尾張国目代光守注進状(醍醐寺文書)に「国衙正税内神講并無其沙汰在所事」として「九貫五百文 下浅野 北野御領」とあり、下浅野しもあさの保の地頭職は保持できており、同年の尾張国在庁等注進状(同文書)からも知られる。

浅野保
あさのほ

小坂おさか庄の内。嘉暦二年(一三二七)八月二五日の関東下知状(海老名文書)に「加賀国興・浅野両保雑掌信智」とみえ、「領家遷替之隙」をうかがって、おき・浅野両保一円地頭を自称する海老名宗心(忠国)と、領家二条家側の両保雑掌信智らの間に起こった下地の一円支配をめぐる相論の結果、海老名氏庶流の宗心が惣領家の地頭職をねらったものと断じられた。この下知状によればこれより先、嘉禄三年(一二二七)地頭海老名忠行が興・浅野両保を海老名維家(宗心の祖父)に譲り、仁治三年(一二四一)地頭海老名道一(忠行の子、維則の曾祖父)と雑掌道禅に和与中分が勧告され、翌四年三月頃に下地中分が行われた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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