淵村(読み)くしぶちむら

日本歴史地名大系 「淵村」の解説

淵村
くしぶちむら

[現在地名]小松島市櫛淵町

立江たつえ村の南西に位置し、南北を丘陵に挟まれた平野部にある。北を撫養むや街道が通る。中世は櫛淵庄などとみえ、近世は初め那西なさい郡、のち那賀なか郡のうち。地内に櫛淵左近の拠った城があったと伝え(古城諸将記)、天正一三年(一五八五)秋元あきもと城主の秋本治郎五郎(左近佐成貞)が蜂須賀家の家臣団に編入され、末弟の盛行は同一四年に政所役を命じられている(「阿淡年表秘録」、「小仁宇村肝煎秋本多三郎身元相調指上帳」県立図書館蔵呉郷文庫)。慶長二年(一五九七)の分限帳に「以西」のうちとして「櫛淵分」とあり、高一一〇石余が岩田兵次郎の知行分。同九年の検地帳(櫛淵村史)では田畠合せ一〇〇町六反余。慶長年間と推定される国絵図では那西郡内に「くしふち」とみえる。慶長九年の那西郡櫛淵村検地帳(櫛淵村史)では筆数一千五八九、田一〇〇町六反余・畠居屋敷九町八反余、高一千五一三石余。記載は耕地名・反別・分米・名請人の順でなされ、検地は三月三日に始められ、第一日に筆数一一七筆・田数一八町一反余・分米三〇九石余、同四日には一八四筆・田数八町三反余・畠数六反余など、五日・六日はなく、七日には筆数一六二筆・田畠数九町七反余などとあり、検地の実施状況がうかがえる。


淵村
ますぶちむら

[現在地名]東和町米川よねかわ

二股ふたまた川支流の鱒淵川沿岸の丘陵地に集落が散在する。北西狼河原おいのかわら村があり、東は本吉もとよし馬籠まごめ(現本吉町)への道が続く。大永二年(一五二二)及川小八郎重家が鱒淵に移住し、天文一一年(一五四二)その孫及川源八郎紀伊は鱒淵村などに采地一〇〇貫文を得て鱒淵城に居城したという(「源姓及川氏略譜」及川鹿千代家文書)。寛永七年(一六三〇)寺池てらいけ(現登米町)城主伊達宗直の三男梁川宗元は鱒淵村に一〇〇貫文の知行を与えられ、鱒淵村の吉田よしだに住み、治水工事を行い、水害を防ぐ功績が大きかったという(登米十五年史)


淵村
ますぶちむら

[現在地名]瑞穂町鱒淵

三日市みつかいち村の西、出羽いずわ川左岸の段丘と後背の山間に立地。中央のふたッ山(五三〇・八メートル)を囲む形で南の河岸段丘鱒淵原ますぶちはら、同山南麓に永明寺ようめいじ馬野原まのはら川流域に緩木ゆるぎ・馬野原、下対しもつい川流域に下対・臼谷うすたにの計六集落がある。永明寺に接する丘陵に御華山おはなやま古墳群、水田中に竹前たけまえ遺跡がある。元和五年(一六一九)の古田領郷帳に村名がみえ、高五一六石余、年貢高は田方二〇五石余・畑方五八石余。正保国絵図では高五一六石余。のち三日市村を分村し、正保四年(一六四七)の古田領郷帳では高四一六石余、免五ツ四分二朱。


淵村
するぶちむら

[現在地名]片品村摺淵

幡谷はたや村の北、ぬり川左岸、片品川右岸に位置。寛文郷帳によると田方五石余・畑方一一五石余。寛文三年(一六六三)の真田領村高書上控では高五四二石余。貞享二年(一六八五)の旧真田領村高書上控では高一三二石余。延享三年(一七四六)当村では幕府代官所宛に定免願(星野文書)を出しているが、それには次のようにある。当地方は周りを高山に囲まれ、降雪が早く春も遅くまで霜が降りるという耕作には悪条件の地であるが、当村はとりわけ「近村より一段高ク場ニ而、武尊おろしと申風はげ敷」場所で、しかも水利が悪く二、三日も晴天が続くと田は水不足となり、また二、三日も雨が降り続くと水禍となって収穫が落ちる。


淵村
あしぶちむら

[現在地名]大内町小栗山こぐりやま 芦渕

いも川の右岸にあり、北は見岫みぐき村、南は小栗山村に接する。

慶長一七年(一六一二)の由利郡中慶長年中比見出検地帳(由利郡中世史考)の岩屋領の一村に足淵村とある。寛永二年(一六二五)の由利御知行之内打直分免定覚によれば高三九石三斗五合、納米一六石九斗一升、免四ツ三分。正保三年(一六四六)の出羽国油利郡内高目録(秋田県庁蔵)、同四年の出羽一国絵図、元禄一五年(一七〇二)の出羽国由理郡郷村高辻帳も村高に大きな変化がない。「上川大内村郷土誌」によれば、寛政年間(一七八九―一八〇一)小栗山村肝煎佐々木与市が、芦淵上台あしぶちうわだいを開墾したという。


淵村
あしふちむら

[現在地名]三和町字芦淵あしぶち

土師はぜ川を挟み、両岸の山麓に発達した村で、北は萩原はぎわら(現福知山市)と境し、南は草山くさやま村・千束せんぞく村、東は河合かわい村に接する。

「丹波志」に「上芦淵ヨリ大川ヲ西エ越、京道筋ニ散リテ民家十戸有之、三軒屋ト云、又氏神ノ南ト云所古ヨリ本村也、又北ニ岡部ト云所慶長ノ此ヨリ出戸、今下芦淵トモ云」とみえ、綾部藩領、高二二五・七二石、民家九五戸と記す。


淵村
ならぶちむら

[現在地名]大内町岩野目沢いわのめざわ 楢渕

いも川右岸、河岸段丘上の小村で、南は鹿爪かのづめ村、北は岩野目沢村に接する。

寛永二年(一六二五)の油利之内修理大夫様御知行御検地帳免定之目録写に、高一二石六斗二升九合、納米八石八斗四升、免七ツとあり、亀田藩内でも高免の村で、同四年打直検地が行われ「新高拾五石九斗九升壱合 此納米五石五斗七合 但三ツ五分成」(油利新沢ノ内川池八ケ所打直免定之覚)に改められた。正保三年(一六四六)の出羽国油利郡内高目録(秋田県庁蔵)には村名がなく、同四年の出羽一国絵図には増沢の内楢淵村とあり、高は記されない。

宝永七年(一七一〇)の御巡見様御案内ニ付留書覚印牒(大内町文化財資料)に「岩のめ沢村分 楢ぶち村家数弐軒」とあり、岩野目沢村の支郷となった。


淵村
ふちむら

[現在地名]大河内町ふち

くり村の北に位置し、いち川と支流栃原とちはら川の合流点の谷間に立地する。北は川尻かわしり村・栃原村(現生野町)、東は多可たか猪篠いざさ(現神崎町)。天正年間(一五七三―九二)但馬に侵攻した羽柴秀吉は淵・川尻の名主・百姓に対し、銀山普請用の縄・竹木・人足の供出を命じる折紙(北村家文書)を発している。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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