鎌倉末期に来日した臨済(りんざい)宗の僧。中国、福州(福建省)の人。俗姓は劉(りゅう)氏。諸師に参じたのち愚極智慧(ぐごくちえ)の法を嗣(つ)ぎ、1326年(嘉暦1)北条氏の招請で来朝。鎌倉の建長寺、浄智(じょうち)寺、円覚(えんがく)寺に歴住し、建長寺禅居庵(ぜんごあん)に退く。1333年(元弘3・正慶2)京都建仁寺へ移り、さらに南禅寺に昇住し、その後、小笠原貞宗(おがさわらさだむね)に請われて信濃(しなの)(長野県)開善寺1世となった。ふたたび禅居庵に退くが、勅により建仁寺に再住し、1339年(延元4・暦応2)正月17日に示寂した。大鑑禅師(だいかんぜんじ)と諡(おくりな)される。著書に『清拙和尚(わじょう)語録』『清拙和尚禅居集』『大鑑清規(だいかんしんぎ)』『大鑑小清規』がある。
[中尾良信 2017年2月16日]
鎌倉時代の臨済宗の僧。中国福州の人で15歳で出家し,浄慈寺の愚極智慧禅師の法をついだ。1326年(嘉暦1)来日し,北条高時の殊遇をうけて鎌倉の建長寺,浄智寺,円覚寺の住持を歴任,33年(元弘3)建武新政にあたって後醍醐天皇に招かれて上洛し,京都の建仁寺,ついで南禅寺の住持となった。38年(延元3・暦応1)老病のため建仁寺の禅居庵に退いたが,足利尊氏の懇望で南禅寺に再住し,その翌年禅居庵で示寂した。勅諡(ちよくし)大鑑禅師。正澄は中国禅の正脈を日本に伝え,天境霊致,独芳清曇,古鏡明千ら多くの名僧を育て,日本禅宗24流の一つ,清拙派(大鑑派)の派祖とされる。また詩文に巧みで遺稿に《禅居(ぜんご)集》があり,初期五山文学の重要な地位を占めている。
執筆者:藤井 学
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(佐藤秀孝)
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…当時,中国には笑隠大訢(しよういんたいきん)という禅僧が出て,禅四六の作法を一定し,これを〈蒲室疏法(ほしつそほう)〉と称したが,中巌円月,絶海中津はこの法を体得した。またこの時代には,清拙正澄(せいせつしようちよう),明極楚俊(みんきそしゆん),竺仙梵僊(じくせんぼんせん)など,中国僧の来朝があり,これらの人の作品は,正真正銘の“漢”文だったので,五山文学中とくに光彩を放った。その後義堂周信,絶海中津も和様に流れることきわめて少なかった。…
※「清拙正澄」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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