〈京都・山城寺院神社大事典〉
建仁二年(一二〇二)栄西の創建で、「帝王編年記」は「建仁二年壬戌建仁禅寺草創、当寺者本朝禅院最初、千光法師開山也」とする。創建にまつわる逸話として「元亨釈書」は「元久二年、京畿風、流言集栄西、栄西弁析明切、因是建仁為官寺、得監造」とし、「沙石集」も
との記事を載せ、大風による流言に対して栄西が明晰な反論をし、高僧と認められて建仁寺を賜ったとする。
寺地は「元亨釈書」に「金吾大将軍源頼家施地于王城之東、営大禅苑」とあり、鎌倉幕府より施入をうけ「五条以北、鴨河以東」の地が定められた(帝王編年記)。工事は「同三年癸亥十一月十五日己卯、西面築垣始之、前対馬守中原朝臣清業沙汰」、あるいは「同四年甲子二月九日癸卯鬼宿築僧堂壇、佐々木太郎源定綱秀義長子、自手曳車築之同四月定綱賜使宣旨、為佳例、同日渡殖菩提樹二茎等、丑寅角也」「同三日畠山庄司次郎重忠築垣二本、未申角惣門北二本築之」というように、武将らが「得道之因縁」を求め来援している(同書)。竣工は元久二年(一二〇五)のようで、「小笠原系図」の長経の項に「元久二乙丑為建仁官寺供養使入洛」とあり、また「武家年代記」裏書には「元久二年、建仁寺為官寺」と記され、竣工とともに官寺の扱いを受けたものと思われる。
栄西は備中の
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
一般に「けんねんじ」ともよばれる。京都市東山区小松町にある臨済(りんざい)宗建仁寺派の大本山。東山(とうざん)と号する。1202年(建仁2)将軍源頼家(よりいえ)が栄西(えいさい)(千光(せんこう)国師)を開山として建立。日本臨済宗の開祖とされる栄西は、初め密教を学んだが、1187年(文治3)にふたたび中国(宋(そう))に渡って臨済宗黄龍(おうりょう)派の禅を学んだ。1191年(建久2)帰国後、禅を広めようとしたが天台宗徒の反対にあったので、『興禅護国論(こうぜんごこくろん)』を著して天台側との融和を図ろうとした。鎌倉幕府の保護のもとに建てられた京都最初の禅院である建仁寺も、このような情勢のもとに、初めは真言院、止観院(しかんいん)を置いた天台、真言、禅、さらには戒をも兼修する寺であった。栄西の弟子には退耕行勇(たいこうぎょうゆう)、了然明全(りょうねんみょうぜん)など傑出した禅僧が出たが、いずれも天台、真言を兼修する禅であった。1258年(正嘉2)円爾弁円(えんにべんえん)が住持となり、65年(文永2)宋の蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)が11世となって楊岐(ようぎ)派の禅を説き、建仁寺は初めて純粋の修禅道場となった。1341年(興国2・暦応4)に足利尊氏(あしかがたかうじ)によって五山の第四位に、さらに86年(元中3・至徳3)足利義満(よしみつ)によって五山の第三位と定められた。南北朝時代以後、義堂周信(ぎどうしゅうしん)、竜山徳見(りゅうざんとくけん)、江西龍派(こうさいりゅうは)などが住持して五山文学の中心となったが、応仁(おうにん)の乱(1467~77)により荒廃し、さらに1552年(天文21)兵乱により堂宇を焼失した。文禄年間(1592~96)安国寺恵瓊(えけい)が安芸(あき)(広島県)安国寺の方丈を移建し、また鎌倉の東福寺の茶堂を移して本堂としたのち、ふたたび寺運盛んとなった。江戸時代には徳川幕府の五山派寺院に対する保護と統制を受け、諸堂の再建、修造が行われた。本尊は釈迦如来坐像(しゃかにょらいざぞう)で、脇侍(きょうじ)に仏弟子の阿難(あなん)と迦葉(かしょう)を配している。
建造物のうち、方丈と勅使門は国の重要文化財。勅使門は俗に「矢の根門」といわれ、平氏の六波羅(ろくはら)邸の遺構とも伝える。仏殿(法堂(はっとう))の東に二つの鐘楼があり、西の鐘は嘉暦(かりゃく)年間(1326~29)に鋳造したもの、東の鐘は、栄西のときから1日に百八声、陀羅尼経(だらにきょう)を読誦(どくじゅ)しながら鳴らしてきたので「陀羅尼の鐘」といわれ、東山名物の一つとされた。開山堂は興禅護国院(こうぜんごこくいん)といい、栄西の像を安置しており、堂の前の菩提樹(ぼだいじゅ)は栄西が宋より帰国するとき持ち帰ったものといわれる。そのほか、寺内には中国元から来日した清拙正澄(せいせつしょうちょう)を開基とする禅居庵(ぜんこあん)、摩利支天(まりしてん)の坐像を安置する摩利支天堂、経蔵、浴室などがある。西側の一帯は昔からの竹垣があり、一般に「建仁寺垣」とよばれる。塔頭(たっちゅう)寺院は最盛時には64院あったが、焼失や合併などのため、現在は西来(さいらい)院、両足(りょうそく)院、霊洞(れいとう)院など14院だけが残る。栄西は中国から茶をもたらし、日本に茶の栽培、喫茶の習慣を普及したといわれ、4月下旬の開山忌には茶会「建仁寺茶礼」が催される。寺宝は、俵屋宗達筆『風神雷神図屏風(びょうぶ)』(国宝)のほか、「十六羅漢(らかん)画像」「山水図」「竹林七賢図」などの絵画、明恵上人(みょうえしょうにん)消息、一山一寧(いっさんいちねい)墨跡(いずれも国指定重要文化財)など数多い。
[菅沼 晃]
『『古寺巡礼 京都6 建仁寺』(1976・淡交社)』
京都市東山区にある臨済宗建仁寺派の本山。開山は明庵栄西。栄西は宋より帰国すると,博多聖福寺,鎌倉寿福寺を拠点として禅法を挙揚(こよう)したが,彼の念願は,王城の地たる京都への進出であった。さいわい帰依者であった将軍源頼家が,鴨川以東で,五条以北四条以南の地を施入したので,1202年(建仁2)この地に真言・止観・禅の三院併置の建仁寺を建立した。《沙石集》に〈国の風儀に背かずして,教内をひかへて,戒律・天台・真言なんど相兼ねて,一向の唐様を行ぜられず,時を待つ故にや〉と記しているごとく,栄西は旧仏教勢力の金城湯池たる京都において,極力彼らとの摩擦をさけ,建仁寺を教禅兼修の道場としたのである。それでも旧仏教勢力からの非難攻撃は避けられず,05年(元久2)都で大風が吹いたとき,その原因は栄西ら禅徒たちの大袈裟,大衣という異様な服装のせいであるとし,栄西は都から追放されようとしたほどであった。のち蘭渓道隆が11世住持となるに及んで,ようやく純粋な修禅道場となった。南北朝期に入って五山第3位に列位され,五山文学活動の中心的存在となった。幾度か火災にあったが,1552年(天文21)諸堂宇を全焼し荒廃していたものを,安国寺恵瓊(えけい)が再建に努力し,安芸安国寺の方丈,東福寺の茶堂などを移建して旧観に復した。盛時には塔頭(たつちゆう)64院を数えたが,現在は減少して14院となり,ほかに末寺70ヵ寺を擁している。
執筆者:藤岡 大拙
境内は南面し,かつては五山にふさわしい三門,仏殿,法堂が南北の直線上にならぶ伽藍を誇った。現在はその中心部には江戸時代後期の仏殿と小さな山門をみるにすぎない。建造物ではわずかに南端の総門(勅使門,鎌倉後期)と,北端の方丈(旧安芸安国寺より移建。創建は1487年)が重要文化財に指定されている。寺宝には俵屋宗達晩年の作《風神雷神図》(国宝)の二曲屛風があり,その裏側には酒井抱一筆の《夏秋草図》がある。桃山時代に移建した方丈には海北友松筆の《竹林七賢図》《花鳥図》などの襖絵があったが,1934年の室戸台風の後,掛幅となっている。このほか,明代の《十六羅漢図》,明恵上人消息,一山一寧墨跡などが伝えられ,境内各塔頭にも友松筆の襖絵など多くの文化財がある。中門の竹垣は建仁寺垣として著名である。
執筆者:益田 兼房
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「けんねんじ」とも。京都市東山区にある臨済宗建仁寺派の本山。開山は栄西。土御門(つちみかど)天皇の勅願で,1202年(建仁2)源頼家が創建した日本最初の禅院。建築が始まったのは03年,竣工は05年(元久2)。1386年(至徳3・元中3)には京都五山の第3位になるなど,終始五山の一つであった。建造物では方丈・勅使門(重文),絵画では俵屋宗達の「風神雷神図」(国宝),南北朝期の「十六羅漢像」,桃山時代の「竹林七賢図」「花鳥図」「琴棋書画図」(いずれも重文)などがある。
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出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報
…99年(正治1)鎌倉に下向,北条政子と2代将軍源頼家の帰依をうけ,翌年寿福寺に請ぜられて開山となった。《吾妻鏡》はもっぱら密教祈禱僧としての活動を記録しているが,1202年(建仁2)頼家の寺地施入により京都に建仁寺を開創,また頼家の申請で朝廷はここに真言・止観・禅の三宗を置く宣旨を下した。かくて禅宗勅許の目標は一応達成され,京都・鎌倉を往復する栄西の活躍が始まった。…
…しかし,幅広い教養人として,終生芸事を一段低く見る武門の気概を失わなかったため,作品には,武人的な鋭い覇気がうかがえる。99年(慶長4)再建の建仁寺方丈に描く《琴棋書画図》《花鳥図》《竹林七賢図》などのほか,霊洞院の《花鳥図》,禅居庵の《松竹梅図》などの襖絵は,狩野派に学んだ巨大樹木など桃山的な様式と同時に,梁楷様(りようかいよう)の〈袋人物〉の造成や,牧谿様(もつけいよう)の叭々鳥(ははちよう)に潑墨風の松を組み合わせるなど,独自の画技を展開し,象徴的で直截な自己主張を表している。また《飲中八仙図》屛風(京都国立博物館),《山水図》屛風(東京国立博物館),《楼閣山水図》屛風(MOA美術館)などは,玉澗風の潑墨もまじえ,真行草の三体を会得したことを示す。…
…鎌倉五山に対し,京都にある臨済宗の大禅刹,すなわち南禅寺・天竜寺・相国(しようこく)寺・建仁寺・東福寺・万寿寺をいう。中国南宋代の五山官寺制度が,日本に移植されたのは鎌倉時代末期のことで,はじめは建長寺・円覚寺など鎌倉の大禅刹をもって五山としていた。…
※「建仁寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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