建長寺(読み)けんちょうじ

精選版 日本国語大辞典 「建長寺」の意味・読み・例文・類語

けんちょう‐じ ケンチャウ‥【建長寺】

[1] 神奈川県鎌倉市山ノ内にある臨済宗建長寺派の大本山。山号は巨福山北条時頼聖一国師円爾)とはかって建長三年(一二五一起工、同五年竣工し、蘭渓道隆を招いて開山とした。暦応四年(一三四一)、鎌倉五山の第一位となる。本尊は丈六地蔵。
[2] 〘名〙 ((一)の境内は昔から掃除が行き届いていたところからいう) 清浄であること。きれいなさま。また、何もないこと。
※雑俳・三また竹(1730‐36頃)「ねじて見る・火鉢の灰のけん長寺」

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デジタル大辞泉 「建長寺」の意味・読み・例文・類語

けんちょう‐じ〔ケンチヤウ‐〕【建長寺】

神奈川県鎌倉市山ノ内にある臨済宗建長寺派の本山。山号は巨福山こふくざん。開創は建長5年(1253)、開基は北条時頼、開山は蘭渓道隆らんけいどうりゅう鎌倉五山の第一位。国宝の梵鐘・道隆画像など多数の文化財を所蔵。

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日本歴史地名大系 「建長寺」の解説

建長寺
けんちようじ

[現在地名]鎌倉市山ノ内

巨福呂こぶくろ坂の北側にある。臨済宗建長寺派本山。巨福山建長興国禅寺という。本尊地蔵菩薩。開山蘭渓道隆、開基北条時頼。鎌倉五山の一つ。「吾妻鏡」建長五年(一二五三)一一月二五日条に「建長寺供養也、以丈六地蔵菩薩中尊、又安置同像千体、相州殊令精誠給、去建長三年十一月八日有事始、已造畢之間今日展梵席」とあり、同三年の造営開始後二年を経て開堂供養が行われたことを記すが、「聖一国師年譜」などでは建長元年創建とする。おそらく建長元年頃から寺地選定など当寺創建に向けての準備が始められたのであろう。創建以前には心平しんぺい寺が建っていたという(鎌倉志)。建長七年梵鐘鋳造、「巨福山建長禅寺鐘銘」で始まる銘文には、大檀那として北条時頼の名や住持道隆の名もみえる。道隆は寛元四年(一二四六)来日、建長寺にあっては規式や罰則を制するなど、わが国最初の禅宗専門道場としての内容充実に貢献した(「蘭渓道隆罰榜」「蘭渓道隆榜」県史二)

開堂後も伽藍造営は続けられたが、永仁元年(一二九三)鎌倉大地震で諸堂が転倒炎上、大きな被害を被った(大覚禅師語録、大休念禅師語録、醍醐寺日記など)。その復興のため同五年には造営料所として安芸国都宇竹原つうたけはら庄地頭職が寄せられ、正安二年(一三〇〇)には仏殿が再建(北条九代記、元応二年九月二五日「関東裁許下知状写」・年月日欠「小早川景宗申状写」県史二など)。正和四年(一三一五)再び火災となったが、翌五年には仏殿立柱が行われている(北条九代記、「建長寺仏殿立柱疏」県史二など)。元亨三年(一三二三)に華厳塔再建、嘉暦二年(一三二七)には拈華堂(法堂)・衆寮が建立(「建長寺華厳塔供養疏」「建長寺拈華堂鼎建立柱疏」県史二、和漢禅刹次第など)。寺蔵の建長寺指図によると、元弘元年(一三三一)には惣門・三門・仏殿・法堂・礼間が中心に並び、その左右に庫院・僧堂・浴室・西浄が配されるといった伽藍が整えられていたようである。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「建長寺」の意味・わかりやすい解説

建長寺
けんちょうじ

鎌倉市山ノ内にある臨済(りんざい)宗建長寺派の大本山。詳しくは巨福山(こふくざん)建長興国禅寺(けんちょうこうこくぜんじ)という。1253年(建長5)、北条時頼(ときより)が中国南宋(なんそう)より来朝した大覚禅師蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)のために創建した禅寺で、日本最初の本格的中国風禅道場である。新興の禅に傾倒する時頼は専門禅寺建立を志しつつ時を得ないでいたが、蘭渓が鎌倉の常楽寺に入るとともに意を決し、京都の聖一国師(しょういちこくし)円爾弁円(えんにべんえん)に諮って鎌倉地獄谷巨福呂(こぶくろ)の地を定め、中国の径山万寿寺(きんざんまんじゅじ)を模して大伽藍(がらん)を建立した。したがって、創建以来、本寺は鎌倉幕府の官寺であるのみならず、新興の禅宗の拠点寺院としての役割を担った寺院であり、つねに鎌倉五山第一位に置かれた寺であった。開山第1世の蘭渓道隆は「法語規則」などを衆僧に示し、宋朝の純粋な禅風をもって武士や民衆を指導した。彼は66歳で示寂したが、その後も、兀庵普寧(ごったんふねい)、無学祖元(むがくそげん)などの宋・元朝より帰投した高僧や入宋(にっそう)僧らが相次いで住持し、鎌倉禅の中心となった。室町・江戸時代においてもその禅風は異彩を放って保たれたが、現在は白隠(はくいん)下の法脈を伝えて僧堂を経営し、有為の人材を多数輩出させている。

 伽藍は、1331年(元弘1)作成の「建長寺指図(さしず)」の写しによると、総門(惣門)、三門、仏殿、法堂などの主要建造物が一直線に並ぶが、たび重なる火災などにあい、現在は様相を大いに異にする。とはいえ、総門(巨福門)、本堂(仏殿)、開山堂、唐門(からもん)、西来庵、昭堂(しょうどう)(礼堂)、仮方丈(ほうじょう)、禅堂などが谷を埋め、大覚禅師お手植えと伝える4本のビャクシンをはじめとする巨木が林立するなかで往古の荘厳な風情をいまに伝える。山門は1755年(宝暦5)の建造であり、重層かや葺(ぶ)き屋根で、正面に「建長興国禅寺」の額を掲げる。仏殿は唐門とともに1647年(正保4)増上寺の徳川秀忠夫人の霊屋(たまや)を移したといわれ、方五間、重層四注造(しちゅうづくり)の壮大な建築物で、国の重要文化財に指定されている。堂内の本尊は禅宗には珍しく地蔵菩薩(ぼさつ)であり、胎内には済田(さいた)地蔵とよばれる小像が納められていた(現在は別置)。これは、済田左衛門が罪を得て時頼に斬罪(ざんざい)に処されようとした際、髻(もとどり)の中に地蔵菩薩像を忍ばせていたため地蔵像が身替りとなって斬を免れたことに由来し、身替延命地蔵とよばれ尊崇されたものであった。昭堂も室町時代の建造であり、国の重要文化財である。

 また裏山にある奥の院勝上廟(しょうじょうびょう)には鎮守半僧坊大権現(はんぞうぼうだいごんげん)を奉祀(ほうし)し、毎年5月と9月に大祭を行う。境内には開山の大覚禅師墓塔(無縫塔(むほうとう))、仏燈(ぶっとう)国師墓塔、茶人織田有楽斎(おだうらくさい)や豪商河村瑞賢(ずいけん)の墓があるほか、方丈裏に心字池を配した庭園(史跡・名勝)がある。梵鐘(ぼんしょう)は北条時頼が物部重光(もののべしげみつ)に鋳造させたもので、道隆撰(せん)の銘があり、国宝に指定されている。寺宝は多く、国宝に絹本淡彩蘭渓道隆像、大覚禅師墨跡法語規則、国重要文化財に十六羅漢図、釈迦(しゃか)三尊像図、木造北条時頼像などがある。

[里道徳雄]

『『古寺巡礼 東国3 建長寺』(1981・淡交社)』『荻須純道著『京鎌倉の禅寺』(1963・教育新潮社)』


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改訂新版 世界大百科事典 「建長寺」の意味・わかりやすい解説

建長寺 (けんちょうじ)

鎌倉市山ノ内にある臨済宗建長寺派の大本山。鎌倉五山第1位。山号は巨福(こふく)山,本尊は地蔵菩薩。寺名,山号,本尊は,建長年間に小袋(こぶくろ)坂の刑場跡で地蔵堂のあった場所に建てられたことに由来する。北条時頼は1253年(建長5)蘭渓道隆(らんけいどうりゆう)を開山に迎え,落慶法要を行った。日本最初の本格的な宋朝風純粋禅の道場で,中国の径山万寿寺(きんざんまんじゆじ)を模した左右対称の伽藍配置であった。55年に梵鐘が鋳造されたが,93年(永仁1)には震災にあい火災,1315年(正和4)にも火災にあったが,翌年北条高時により復興事業が始まり,造営のための貿易船〈建長寺船〉が中国に派遣された。事業は鎌倉幕府滅亡後も続けられ,貞治年間(1362-68)に完成した。鎌倉末期には僧侶だけでも388人にも達している。蘭渓道隆の住したのちには,円覚寺開山の無学祖元や一山一寧(いつさんいちねい),清拙正澄(せいせつしようちよう)などの高僧,さらに中巌円月,絶海中津,義堂周信などの五山文学を代表する名僧がつぎつぎと住持につき,南北朝期にかけて隆盛を極めた。1373年(文中2・応安6)には開山道隆の廟所西来庵が火災にあっているが,室町時代の塔頭(たつちゆう)(歴代住持などの廟所およびかたわらの子院)の数は49院にものぼった。1414年(応永21)大火にあい,26年にも火災にあっている。さらに,永享の乱以降は衰微したが,戦国時代には玉隠英璵が出て,五山文芸を復興させ,戦国期末から江戸初期にかけては竜派禅珠(りゆうはぜんじゆ)が住持となり,幻住派(げんじゆうは)という形式的な禅を導入した。この禅珠は足利学校を再興したほどの人物であった。江戸中期になると,海門元東が京都妙心寺系の古月派の禅にかえ,1884年貫道周一が初代管長に就任するにおよんで,妙心寺系の白隠(はくいん)派の実践を重視し,参禅第一に徹した禅が導入されるに至った。

 文化財としては,蘭渓道隆画像(文永8年自賛),道隆筆法語規則,物部重光作梵鐘(建長7年銘)が国宝,仏殿内の時頼木像,須弥壇(しゆみだん)などの重要文化財が多数存在する。開山卵塔(らんとう),西来庵昭堂,仏殿,唐門も重要文化財で,仏殿と唐門は江戸初期に沢庵の力を得て,駿府久能山から移建したもの。なお,西来庵前には織田有楽斎(おだうらくさい),寺背には河村瑞軒の墓がある。
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百科事典マイペディア 「建長寺」の意味・わかりやすい解説

建長寺【けんちょうじ】

神奈川県鎌倉市山ノ内にある臨済宗建長寺派の本山。本尊地蔵菩薩。山号は巨福(こふく)山,鎌倉五山の一つ。1253年北条時頼が創建,宋僧蘭渓道隆を招いて開山第1世とした。当初は宋風の左右対称の伽藍(がらん)配置。災害で焼失,復興を繰り返し,関東大震災で大部分を失った。現在,仏殿,唐門,昭堂(礼堂)などを残す。国宝に蘭渓道隆像,法語規則,梵鐘がある。庭園は国指定名勝。
→関連項目賢江祥啓兀庵普寧寿福寺

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「建長寺」の意味・わかりやすい解説

建長寺
けんちょうじ

神奈川県鎌倉市山ノ内にある禅寺。臨済宗建長寺派の本山。山号は巨福山。北条時頼の開基で建長5 (1253) 年創建。宋僧の蘭渓道隆 (大覚禅師) を開山第1世とする。次いで無学祖元,一山一寧 (いっさんいちねい) などの名僧が輩出し,文化人の雲集するところとなった。興国2=暦応4 (1341) 年鎌倉五山の第一となり,元中3=至徳3 (86) 年に京都,鎌倉の五山を定めたとき天竜寺とともに第一とされた。堂塔坊舎は数回焼失し,北条,徳川氏により再建。梵鐘は円覚寺のものと並び鎌倉時代梵鐘の双璧をなし国宝。『蘭渓道隆像』1幅 (国宝) ,『大覚禅師墨跡』 (国宝) ,『十六羅漢図』などのほか彫刻,古文書を多数所蔵。境内・庭園は史跡・名勝に指定されている。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「建長寺」の解説

建長寺
けんちょうじ

神奈川県鎌倉市山ノ内にある臨済宗建長寺派の大本山。正式には巨福山建長興国禅寺。開山は蘭渓道隆(らんけいどうりゅう),開基は北条時頼。1253年(建長5)落慶供養が行われた。建立の目的は,皇帝の万歳,将軍家および重臣の千秋,天下泰平を祈り,源氏3代・北条氏一族の死者の霊を弔うことにあった。本尊は丈六の地蔵菩薩座像。寺地はもと地獄谷とよばれた処刑場だった。日本で最初の禅宗専門道場である。1341年(暦応4・興国2)に鎌倉五山第1位となった。1271年(文永8)自賛の「大覚禅師像」,1255年(建長7)鋳造の銅鐘(ともに国宝)などがあり,仏殿前の柏槙(びゃくしん)は開山のお手植えの樹といわれる。境内は国史跡。

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旺文社日本史事典 三訂版 「建長寺」の解説

建長寺
けんちょうじ

鎌倉市山ノ内にある臨済宗の寺院。鎌倉五山の一つ
1253(建長5)年に執権北条時頼が建立し,宋僧蘭溪道隆を開山とした。寺号は年号をとり,もと刑場であった因縁から地蔵を本尊とする。道隆の禅風を慕い,無学祖元・一山一寧 (いつさんいちねい) などの名僧が相つぎ住持となり,1341年鎌倉五山の第1位となる。16・17世紀,寺運は一時衰えたが,徳川家光・沢庵らの力で復興され,今日に至る。

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デジタル大辞泉プラス 「建長寺」の解説

建長寺

神奈川県鎌倉市山ノ内にある寺院。1253年開創。臨済宗建長寺派大本山。山号は巨福山(こふくざん)。鎌倉五山のひとつ。本尊は地蔵菩薩。庭園は国の名勝、仏殿は国の重要文化財に指定。国宝の梵鐘をはじめ、多数の文化財を所蔵する。

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事典 日本の地域遺産 「建長寺」の解説

建長寺

(神奈川県鎌倉市)
美しき日本―いちどは訪れたい日本の観光遺産」指定の地域遺産。

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事典・日本の観光資源 「建長寺」の解説

建長寺

(神奈川県鎌倉市)
かながわの建築物100選」指定の観光名所。

建長寺

(神奈川県鎌倉市)
かながわ未来遺産100」指定の観光名所。

建長寺

(神奈川県鎌倉市)
鎌倉五山」指定の観光名所。

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世界大百科事典(旧版)内の建長寺の言及

【蘭渓道隆】より

…1246年(寛元4)泉涌(せんにゆう)寺の月翁智鏡をたよって来日,やがて鎌倉に下り,寿福寺,常楽寺に住した。1253年(建長5)建長寺が完成すると,開山第1祖となり,北条時頼はじめ多くの鎌倉武士に初めて純粋な宋風禅を説いた。彼の渡来は時頼の招聘によるといわれるが,自身の自発的意志もあった。…

※「建長寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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