清武郷(読み)きよたけごう

日本歴史地名大系 「清武郷」の解説

清武郷
きよたけごう

江戸時代の郷名。郷域は現在の清武町・田野たの町および宮崎市南半にあたる。江戸期は宮崎郡・那珂郡内の村々で構成され、伊東氏が飫肥藩の地方支配のために置いた郷の一つで、藩庁の飫肥おび城下(現日南市)に次ぐ要衝の地として幕末に至る。

〔近世初期の動き〕

天正一五年(一五八七)豊臣政権の征討を受けて島津氏による日向支配が終了すると、宮崎・清武・諸県もろかた本庄ほんじよう(現国富町)は伊東氏の所領となった。しかし伊東氏が飫肥を望み宮崎・諸県・本庄を放棄したため、これらは高橋元種領となった(以上「日向記」)。これにより飫肥・清武、曾井そい(現宮崎市)が伊東氏領となったため(「北郷一雲譜」旧記雑録、年未詳「山田宗昌覚書」山田文書)、清武は伊東氏領・高橋氏領の接点となった。天正一六年清武には河崎(川崎)駿河守が地頭として入部した。しかし清武には旧島津系の領主が残存しており、同一八年に清武・田野、紫波洲崎しわすざき(現宮崎市)の国人が反乱を起こし、曾井の長命寺観音堂を舞台に合戦が行われたが鎮定された。文禄三年(一五九四)豊臣秀吉が伊東氏に対して朝鮮出兵の軍勢動員を行った際、伊東祐兵の軍勢は飫肥から肥前名護屋なごや(現佐賀県鎮西町)に向かう途上の清武で河崎駿河守の供応を受けており、駿河守は地頭として継続して清武を管理していた(以上「日向記」など)。こうしたなか同三年五月一五日に伊東祐兵は山田京徳(京得)に対し清武一〇〇石を宛行ったが(「伊東祐兵知行宛行状」山田文書)、この頃の清武は伊東氏の猟場とされていたようで、山田京得は鳥の献上を命じられている(年未詳一一月二九日「浜川彦右衛門書状」同文書)

一方、河崎駿河守は豊臣秀吉の朝鮮出兵の間に伊東氏の執事となり、文禄二年に秀吉に白砂糖を、翌三年には白鶴を献上して秀吉に接近していた。しかし同年朝鮮から伊東祐兵が帰国すると、祐兵の小姓として従軍していた稲津掃部助の讒言によって同じく従軍していた河崎又右衛門尉らが切腹させられ、又右衛門尉の父である駿河守は浪人となり、稲津掃部助が清武地頭となった。慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原合戦では伊東氏は徳川方につき、稲津掃部助の軍勢は豊臣方高橋氏の家臣権藤平左衛門が守る宮崎城を落城させた。以後、宮崎を確保した伊東氏は薩摩に向かう島津義弘の退路を閉ざし、清武の軍勢は穆佐むかさ(現高岡町)倉岡くらおか(現宮崎市)の島津勢と田野(現田野町)で戦っている。稲津掃部助は同年一一月に宮崎から清武に帰り、翌六年四月には山田京徳らの伊東氏給人も稲津氏に加勢していたが、五月に伊東・島津両者の和議交渉が開始された。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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