日本歴史地名大系 「清武郷」の解説
清武郷
きよたけごう
江戸時代の郷名。郷域は現在の清武町・
〔近世初期の動き〕
天正一五年(一五八七)豊臣政権の征討を受けて島津氏による日向支配が終了すると、宮崎・清武・
一方、河崎駿河守は豊臣秀吉の朝鮮出兵の間に伊東氏の執事となり、文禄二年に秀吉に白砂糖を、翌三年には白鶴を献上して秀吉に接近していた。しかし同年朝鮮から伊東祐兵が帰国すると、祐兵の小姓として従軍していた稲津掃部助の讒言によって同じく従軍していた河崎又右衛門尉らが切腹させられ、又右衛門尉の父である駿河守は浪人となり、稲津掃部助が清武地頭となった。慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原合戦では伊東氏は徳川方につき、稲津掃部助の軍勢は豊臣方高橋氏の家臣権藤平左衛門が守る宮崎城を落城させた。以後、宮崎を確保した伊東氏は薩摩に向かう島津義弘の退路を閉ざし、清武の軍勢は
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報