南北朝時代からみえる地名。現清武町付近に比定される。清竹とも記す(「明赫記」など)。貞治三年(一三六四)一〇月八日の一色範親感状写(大脇文書)によれば、大脇重為は清武城での合戦の戦功を賞されている。大脇氏に対する清武城合戦の戦功は翌四年八月一三日の足利義詮感状写(同文書)にもみえ、改めて戦功認定が行われた。おそらく観応の擾乱による足利尊氏と直義との分裂が日向国に波及しており、畠山直顕方の勢力が清武城を居城としていたのであろう。室町期に入ると清武は島津・伊東両氏の係争地となった(日向記)。室町前期頃のものとみられる年未詳六月一三日の伊東祐貞書状(荒武文書)は、
南九州の領主配置を記した文明六年三州処々領主記(都城島津家文書)には、伊東氏支配下の城として清武城がみえ、清武は伊東氏の直轄領に編成されていた。文明一六年(一四八四)島津氏一族の内訌で
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
宮崎県南部、宮崎郡にあった旧町名(清武町(ちょう))。現在は宮崎市の南部を占める地域。旧清武町は1950年(昭和25)町制施行。旧町名は町内を流れる清武川にちなむ。2010年(平成22)宮崎市へ編入。清武川流域は谷底平野と河岸段丘が発達し、山地は全体に丘陵性である。JR日豊(にっぽう)本線、宮崎自動車道、東九州自動車道、国道269号が通じる。近世は飫肥藩(おび)に属したが、船引(ふなひき)地区は延岡(のべおか)藩、のち天領。ダイコン栽培や施設園芸が盛んである。近年は住宅、文教施設(宮崎大学医学部など)が立地、宮崎サンテクノポリスの中核として、先端技術産業も進出し、人口増加が顕著。幕末の儒学者安井息軒(そくけん)の生誕地で、旧宅は国指定史跡。また船引神社境内の大クスは国指定天然記念物。
[横山淳一]
『『清武町史』(1960・清武町)』
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