石名坂村(読み)いしなざかむら

日本歴史地名大系 「石名坂村」の解説

石名坂村
いしなざかむら

[現在地名]福島市平石ひらいし

平沢ひらさわ村の東に位置し、東は清水町しみずまち村。山地に盆地床が入江状に入込み、ほぼ南高北低状を呈する。文治五年(一一八九)八月奥州軍と源頼朝軍の間で石那坂の合戦があった。「吾妻鏡」同月八日条によると、藤原泰衡方の信夫しのぶ庄司佐藤基治および叔父河辺高経、伊賀良目高重ら一族は石那坂に湟を掘り阿武隈川の水を引入れ城郭を構えて頼朝の軍勢を迎撃した。しかし常陸入道念西(のちの伊達朝宗)の子息為宗・為重・資綱・為家兄弟の奮戦により、藤原方は敗北したという。


石名坂村
いしなざかむら

[現在地名]松山町石名坂

相沢あいさわ村の北、最上川と相沢川の合流点近くにあり、東は丘陵地、北は相沢川を境に楢橋ならはし(現平田町)。字宮野下みやのしたに縄文時代中期・晩期と平安時代の集落跡がある。元和八年(一六二二)の酒井氏知行目録には石名坂興野村とみえ、高一〇石余。同一〇年の検地帳(石名坂区有文書)の名請人は一二人、うち居村九・北目きため村入作二・めうこ沢村入作一。居村で保有地の最も多いのは新右衛門で二町六反余、次いで亦八の二町一反余。


石名坂村
いしなざかむら

[現在地名]黒石市石名坂

黒石城下の東南にあたり、浅瀬石あせいし川に沿い、牡丹平ぼたんだいら村の東南、豊岡とよおか村の西南に位置する。興国四年(一三四三)六月二〇日の尼しれん譲状(遠野南部文書)に「いしな さかをか ふくしゆこせんにゑいたいをかきりてゆつる」とある。当時石名坂は工藤氏の所領であった。天文年間(一五三二―五五)の津軽郡中名字に「石難坂いしなさか」とある。

集落は石名坂館の館跡にあり、館主は平泉ひらいずみ(現岩手県西磐井郡平泉町)の落武者佐藤元春の子孫と伝え、戦国時代には石名坂氏を名乗り、浅瀬石千徳氏に仕えた(浅瀬石川郷土誌)


石名坂村
いしなざかむら

[現在地名]日立市石名坂町

北西は多賀山地丘陵の南縁部にあたり、その東南側は海岸段丘面である。南側を岩城相馬いわきそうま街道が通り、東は久慈・南高野みなみこうや両村。海岸段丘面上に西の妻にしのつま古墳群と土師器を出土する表原おもてはら遺跡・はなわ遺跡がある。隣接の南高野村を含む一帯の地は東南に開けた台地で、弘仁三年(八一二)一〇月の六駅廃止以前は交通の要衝をなしたとされ、「常陸国風土記」の久慈郡の項にみえる「高市たけち」の地に比定され、「和名抄」の久慈郡にも高市郷とみえる。


石名坂村
いしなざかむら

[現在地名]鮭川村石名坂

京塚きようづか村の北にある。集落は南流する鮭川左岸台地の麓に位置し、北・西を真室まむろ川、南・東をうち(牛潜川・牛穿川とも)といずれも南西流する鮭川の支流に画される。耕地は鮭川流域に展開。石奈坂とも記した(天保郷帳など)。近世の集落は現在より西南にあったが内川の洪水を逃れていつの頃か現在地に移ったと伝える(増訂最上郡史)


石名坂村
いしなざかむら

[現在地名]秋田市上新城石名坂かみしんじよういしなざか

五十丁ごじつちよう村・保戸野ほどの村の北にある。文化(一八〇四―一八)頃の「六郡郷村誌略」に「新城川越、山上の平なる処に家あり、田地は麓にあり」と記される。上新城丘陵の段丘が連なり、大保おおぼ桂沢かつらさわからは縄文式土器片(晩期)・土偶・土師器・須恵器片が出土している。

正保四年(一六四七)の出羽一国絵図に石名坂新田村七〇石とあるが、享保一四年(一七二九)の秋田郡御黒印吟味覚書(秋田県庁蔵)には「正保元禄誤新田出」とあり、藩政初期からの村と思われる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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