清沢村(読み)きよさわむら

日本歴史地名大系 「清沢村」の解説

清沢村
きよさわむら

[現在地名]高津区千年ちとせ千年新ちとせしん町・子母口富士見台しぼくちふじみだい

東は新城しんじよう(現中原区)、西は上野川かみのがわ村・下野川村、南は矢上やがみ川を境として久末ひさすえ村に接し、岩川いわかわ・野川二村によって南北に分断される。村の東を東北から西南中原なかはら道が通る。用水は北の新作しんさく村より引く稲毛いなげ用水を用いる。上宿かみじゆく・中宿・下宿蟻山ありやま別所べつしよなどの小字がある。田園簿に村名がみえる。寛永一〇年(一六三三)以降旗本松波・鈴木領の二給。延享四年(一七四七)稲毛川崎用水通田反別堰々諸色人足一件(横浜市添田文書)によれば田三八町五反余、うち九町七反余は谷水天水を利用、畑一二町八反余。


清沢村
きよさわむら

[現在地名]宇和町清沢

宇和盆地西部、宇和川支流のふか川東岸の村。北は杢所もくしよ村、西は小原おばら村に接する。宇和島藩領。慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)宇和郡の項に「清沢村 茅山有」と記される。寛文検地の際に馬木うまぎ村と合し、藩内では清沢馬木村とも称された墅截。清沢村庄屋末光氏が両村を支配した。

太閤検地石高は五〇〇石九斗三升八合、耕地面積の比率は田九三パーセント、畑七パーセントで、寛文検地における清沢村分の田八〇パーセント、畑二〇パーセントとなっている。「墅截」による清沢馬木村の村柄は「上」、耕地は田が「中」、畑が「中ノ下」、水掛り「中」である。


清沢村
きよざわむら

[現在地名]下部町清沢

常葉ときわ村の北東、毛無けなし山地の北西麓に立地栃代とじろ川下流の傾斜地に集落がある。「甲斐国志」にはキヨサワの訓が付してある。慶長古高帳に清沢とみえ高四〇石余、幕府領。宝暦六年(一七五六)版三郡村高帳では高五三石余。文化(一八〇四―一八)初年の家数二四・人数九三、馬二。小字に菅窪すげくぼ・細尾がある。用水は栃代川を北の沢で取水して利用した(甲斐国志)


清沢村
せいざわむら

[現在地名]門前町清沢

飯川谷いがわだに村の南、仁岸にぎし川上流の山地に立地。御経おきよう塚と称する塚があり、かつて真言宗寺院があったと伝える。正保郷帳では高八九石余、田方四町五反余・畑方一町四反。承応三年(一六五四)の村御印では同高、免三ツ九歩(能登奥両郡収納帳)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

プラチナキャリア

年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...

プラチナキャリアの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android