清源寺(読み)せいげんじ

日本歴史地名大系 「清源寺」の解説

清源寺
せいげんじ

[現在地名]山形市長谷堂

漆房うるしぼうにある曹洞宗寺院で、山号は大森山、本尊釈迦如来。寺伝によれば、嘉吉二年(一四四二)新庄瑞雲ずいうん院の三光存辰の開山という。慶長六年(一六〇一)志村光安が東禅寺とうぜんじ(現酒田市)に移ると、八世峯光呑鷲を伴い酒田当寺末寺として曹渓山青原せいげん寺を開いている。最上氏家臣で長谷堂はせどう城主の坂紀伊守光秀が中興開基で、慶長九年四月一六日の光秀寄進(寺蔵文書)によれば「にすのめ四百苅者清源寺分、同所三百六拾苅者勘所五郎分、柳清水四百六拾苅者まつ崎満五郎分、都合千弐百弐拾苅、清源寺内屋敷、同門前屋敷五間」を永代知行として寄進、さらに同一五年二月一二日には「門前屋敷五間」を追加寄進している(「光秀寄進状」同文書)


清源寺
せいげんじ

[現在地名]日野町西大路

西大路にしおおじ東端にある。祥雲山と号し、臨済宗永源寺派。本尊は聖観音。寺伝によれば、古くは中野なかの城主蒲生定秀の庭園で、桂林けいりん亭と称していたが、天正七年(一五七九)定秀が死去、同九年に嫡子賢秀は京都妙心寺一門の別宗を請じ、桂林庵と改めて廟所となし、定秀の位牌を安置した。蒲生氏の国替後、一時衰微したものの、元和六年(一六二〇)仁正寺藩主として市橋長政が当地に入部すると同庵を菩提寺とし、寺領一五〇石を寄せた。


清源寺
せいげんじ

[現在地名]足利市名草中町

名草なぐさ城跡のある山丘東麓に位置する。南陽山と号し、臨済宗円覚寺派。本尊は聖観音菩薩。開基は高一族の南宗継、開山は虎関師錬高弟で京都東福寺二八世の大道一以、延文二年(一三五七)南氏館(現在の金蔵院)の北西方に建立されたという。宗継は足利尊氏の重臣といわれ、同寺には宗継宛の正平七年(一三五二)正月二日の将軍足利尊氏充行状と同年閏二月二三日の将軍足利尊氏御判御教書が所蔵される。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の清源寺の言及

【八木[町]】より

…京都市,亀岡市と接し,国道9号線と山陰本線が通じ,住宅地化が進んでいる。諸畑(もろはた)の曹洞宗清源寺には,同寺に滞在した木喰五行明満の彫った十六羅漢像がある。【松原 宏】。…

※「清源寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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