金蔵院(読み)こんぞういん

日本歴史地名大系 「金蔵院」の解説

金蔵院
こんぞういん

[現在地名]糸魚川市山寺

山寺やまでら集落中央にあり、慈雲山千手院と号し、高野山真言宗本尊千手観世音菩薩。通称山の寺。天長七年(八三〇)法道仙人の開基と伝え、かつては大いに栄え、千手せんじゆ院・金蔵院・弥勒院・東仙坊・中光坊・積宝坊・十重坊・玉蔵坊・最勝坊・東宮坊・藤本坊・南正坊の一二坊を擁したという。戦国時代には僧兵を抱え、上杉氏のため働いたと思われ、天正一〇年(一五八二)三月二四日、上杉景勝は先代謙信の勝軍地蔵の朱印を押した、「今度仁科口之儀被相稼、無比類候、就之寺領分、可為郡司不入」という感状(金蔵院蔵)を山寺院主宛に出している。


金蔵院
こんぞういん

[現在地名]葛生町仙波

アド山(三七一・一メートル)西山麓に位置する。清滝山金蔵院聖法寺と号し、真言宗智山派。本尊は不動明王。「下野国誌」には阿土山と号すとある。寺伝によると弘基の開基で、佐野家累代の祈願所として寺家じか坊と称し、現仙波せんば寺の下てらのしたにあったが、明応三年(一四九四)現在地に移り、山城醍醐寺無量寿院の末として金蔵院と名乗った。大永六年(一五二六)九月二六日、佐野庄金蔵院は醍醐寺権大僧都俊聡に秘密御道具を懇望し、許可されている(「権大僧都俊聡置文写」醍醐寺文書)。永禄三年(一五六〇)四月二〇日当寺で尭雅による印可が行われ、天正六年(一五七八)三月二一日にも再び行われている(「尭雅僧正関東下向記録」醍醐寺文書)


金蔵院
こんぞういん

[現在地名]足利市名草中町

清源せいげん寺の南東の南氏館跡に位置し、北方の藤坂ふじさか峠と北東方の須花すばな坂に向かう交通の基点にあたる。名竜山観音寺竜蔵坊と号し、真言宗豊山派。本尊は聖観音菩薩。寺伝によると大和長谷はせ(現奈良県桜井市)末寺で、永享(一七四四―四八)初年、山城醍醐寺無量寿むりようじゆ院一三世俊海の開山という。境内はもとほりうちと称し南氏の居館であったが、南氏の凋落とともに、早世した宗氏(南宗継の孫)の墓塔のあった居館がやがて当寺となったと考えられる。


金蔵院
こんぞういん

[現在地名]吉見町大串

近世には毘沙門堂びしやもんどうとよばれていた。大串おおくしの東部にあり修験宗。本尊は大串次郎重親の守本尊であったとされる三尺の毘沙門天立像。「風土記稿」によると元来毘沙門堂は重親の創立した寺院で、往時は七堂伽藍を備え、大串山知足院隆福りゆうふく寺が別当寺であったと伝える。しかし天文年中(一五三二―五五)の松山合戦の兵火で焼亡し、「今ノ如」き堂舎となったという。近世大串村の小名、寺家通・応生寺おうしようじ光楽寺通こうらくじどおりなどは隆盛であった頃の隆福寺坊中の名残とされる。


金蔵院
こんぞういん

[現在地名]総和町下辺見

下辺見しもへみ集落のほぼ中央に所在。泉見山法照ほうしよう寺と号し真言宗豊山派。本尊不動明王。寺伝によると天文一二年(一五四三)法印行音が開山したといい、江戸時代に再三火災にあって堂宇焼失、明治初期には廃寺となる。檀徒の協力により明治一四年(一八八一)再興

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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