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湊城 みなとじょう

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日本の城がわかる事典の解説

みなとじょう【湊城】

秋田県秋田市にあった平山城(ひらやまじろ)、平城(ひらじろ)。旧城、新城の2つの城がある。以前は同一視されていたが、別の城であることが明らかになった。旧城は、津軽・十三湊(とさみなと)を拠点として日本海や蝦夷地(北海道)交易を支配して大きな勢力となっていた安東氏の当主盛季の弟・鹿季が1394年(応永1)、秋田に侵入して雄物川河口の土崎湊に築いたとされている平山城である。今日の寺内後城に築かれていたとされているが、確証はない。鹿季は、この城を拠点に湊氏と秋田城介(あきたじょうのすけ)を名乗った。檜山安東氏は、本家の津軽安東氏が南部氏の圧迫を受けて蝦夷地に逃れた後、湊安東氏の庇護を受けて今日の秋田県北部に定着した安東氏の一族だが、檜山安東氏の当主安東愛季(ちかすえ)が湊城(旧城)に入り、後継者の途絶えた湊安東家の当主を兼任して両安東氏は統合された。しかし、愛季の死後、実季(さねすえ)の代に湊安東氏の独立を画策する動きが起こり、大規模な争乱(湊合戦)となった。この戦いで湊城を奪還した実季は1597年(慶長2)、土崎湊に檜山城(能代市)に代わる新たな居城として、二重の濠をめぐらした新しい大規模な平城の建設に着手した。こうして1601年(慶長6)にできあがったのが湊城(新城)である。通常、湊城と呼ばれる場合は、この新城を指すことが多い。その後、旧湊城が廃城になったかどうかはわからない。新城完成の翌年、秋田氏を名乗るようになっていた安東氏は常陸国宍戸へと転封となる。代わって秋田に国替えとなった佐竹氏の当主佐竹義宣が湊城に入城した。大大名の佐竹氏にとって湊城は手狭であったのか、すぐに久保田城の建設を開始。同城完成後、湊城は廃城となった。その建物は1615年(元和1)の一国一城令を受けて取り壊され、1620年(元和6)には、その跡地の一角には土崎神明社(つちざきしんめいしゃ)が建立されたほか、敷地は町人の住居や店舗になり、江戸時代の土崎湊町の中心部となった。こうしたことから、湊城の遺構はほとんど残っていない。昭和30年代まで同城の内堀の一部とされる水堀が残っていたが、その後の宅地化で埋め立てられてしまったため、土崎神明社の隣の児童公園内に、土塁と思われる遺構がわずかに残るだけである。しかし、2005年(平成17)、道路拡張に伴って大規模な発掘調査が行われ、多数の遺構・遺物が出土した。JR奥羽本線土崎駅から徒歩約5分。同駅の西方200mに土崎神明社がある。◇新城は旧城と区別して土崎湊城とも呼ばれる。また、湊城は福井県の三国湊城など全国にあるため、これらと区別するため、出羽湊城(でわのみなとじょう)と呼ばれることもある。

出典|講談社
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世界大百科事典内の湊城の言及

【三国湊】より

…また三国湊での交易に対して交易(きようやく)上分が課されていたが,同年この上分は内侍所(ないしどころ)と興福寺が半分宛て徴収することと定められた。33年(元弘3)6月には後醍醐天皇の新政に呼応したとみられる三国湊千手寺僧などが強盗,殺害を行っており,のち,南朝方の畑時能は湊城(千手寺城)に拠って北朝方と戦っている。南北朝期以降は三国湊の交易上分および付属田畠を宮内省内膳司が支配していたが,81年(弘和1∥永徳1),1412年(応永19)には近隣武士の押妨が知られ,66年(文正1)にも内膳司と興福寺が三国湊の所領について争っている。…

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