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デジタル大辞泉
「院内銀山」の意味・読み・例文・類語
いんない‐ぎんざん〔ヰンナイ‐〕【院内銀山】
秋田県湯沢市の銀山。慶長11年(1606)発見、江戸時代は秋田藩の直轄となり産出量が多かった。昭和29年(1954)閉山。
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院内銀山
いんないぎんざん
上院内村の西、標高四〇〇―五〇〇メートルの山中にあり、雄物川最上流の支流十分一沢川に西南から注ぐ銀山川に沿う。西は日長峠・松ノ木峠をもって、矢島藩領と境する。文化一二年(一八一五)の「秋田風土記」に「銀山相の山、北平に続く西北の山を大仙と号す、至銀多しといへり、西を東安山と云高山也、矢島堺南嶺を小南沢と云、此山尤銀多し、土中水ありて取注難し、銀山の沢水西より東に流、十分一に至て大沢川に会す」と記す。
院内銀山は藩政初期に発見・開発され、西の石見(現島根県大田市)、生野(現兵庫県朝来郡生野町)に比肩する大銀山として発展する。
〔開発〕
開発の経緯については院内銀山記に詳しい。銀山は慶長一一年(一六〇六)越前国敦賀浪人村山惣兵衛ら関ヶ原の戦で敗れた四人の浪人によって発見され、家老渋江内膳を通じて藩主へ注進された。佐竹義宣は発見者四人に山先証文を与えて採掘にあたらせる一方、直山に定めて藩自ら経営に乗り出す。山仕置奉行には当初箭田野安房守義正、のち梅津政景・川井嘉兵衛・介川左門を命じ、その下に奉行手代三人をはじめ「御蔵米払役両人、諸役御運上受取役両人、上様御帳物書両人、銀払役両人、小平番所関守弐騎、銀山入口長倉に屋敷を構ひ諸事売物十分一役所守弐騎、同所価打、秤取上様御扶持人両人、銀山間歩仕置当番拾弐人、足軽三拾人」を置いた。また石番所を設け鉱石の密売を禁じ、元和三年(一六一七)には次のように院内町中法度五ヶ条を定めている。
<資料は省略されています>
院内銀山日記(雄勝町史)弘化二年(一八四五)二月晦日の記事に「ケンカ人数今日追山仰付らる」、嘉永元年(一八四八)一一月一九日の記事には「盗人三人片びんそり、耳削り御追放に相成」と法度の運用を伝える。
〔直山・請山〕
院内銀山の最盛期は慶長年間で、当時の間歩(坑道)の繁栄を院内銀山記は次のように記す。
<資料は省略されています>
しかし、その後浸水などによって頽勢が続き、享保六年(一七二一)の今宮摂津守財用之考写は「新銀十八〆目、外ニ米鉛払代銀院内銀山ニ而費毎年御損亡也相止申度存候」と窮状を訴えている。
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院内銀山
いんないぎんざん
出羽(でわ)国雄勝(おがち)郡院内(秋田県湯沢市院内銀山町)に開かれた銀山。1606年(慶長11)に村山宗兵衛(そうべえ)らが発見、秋田藩の直営(直山(じきやま))となる。1619年までは運上銀年200貫以上、人口1万の鉱山町として繁栄した。元和(げんな)・寛永(かんえい)期(1615~44)の運上銀は150~50貫を上下し、その後はしだいに衰退した。初期には山奉行(やまぶぎょう)梅津政景(うめづまさかげ)により鉱山行政全般の確立が図られたが、1725年(享保10)には直山から請山(うけやま)となり山師の請負になった。1817年(文化14)以後ふたたび直山となり、生産額は増加し、33年(天保4)から10年間、銀が毎年1000貫を超え、金も30~40貫に及んだ。明治以降は小野組経営や工部省官営を経て、1885年(明治18)古河(ふるかわ)鉱業会社(現古河機械金属)の経営となり、一時は銀産額年間4100貫に達したが、1921年(大正10)には休山となり、以後、操業再開されたが、1954年(昭和29)閉山した。
[村上 直]
『小葉田淳著『日本鉱山史の研究』(1968・岩波書店)』
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院内銀山【いんないぎんざん】
秋田県雄勝(おがち)郡雄勝町(現・湯沢市)にあった銀山。かつては石見銀山,生野銀山とならぶ大銀山。1606年ごろの発見といわれ,秋田藩直営のもとに採掘,初期には梅津政景が院内銀山奉行として手腕をふるった。当時,幕府の運上銀は200貫を超え,人口1万人の銀山町として栄えた。天保年間(1830年−1844年)には月100貫の銀を産した。1885年以後,古河鉱業の経営により最盛期を迎えたが,良鉱を掘りつくし,1921年に休山となり1954年閉山した。
→関連項目梅津政景日記|古河市兵衛
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院内銀山
いんないぎんざん
江戸時代から発展した秋田県湯沢市にある銀山。 17世紀初頭に発見されたものといわれる。秋田藩が 19世紀初めに梅津政景らを用いて直轄経営し,天保年間 (1830~44) には相当量の銀を産出し繁栄した (→梅津政景日記 ) 。明治維新後,1874年小野組が経営したが破産。明治政府が直轄し,さらに産出不振のため,1885年古河市兵衛に払い下げられた。古河のもとにあって銀山の産出額は増大し,払い下げ当時の産銀 840貫 (3.15t) から 1895年には 4800貫 (18t) と激増し,この時期に最盛期を画した。
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院内銀山
いんないぎんざん
秋田県湯沢市の院内銀山町にあった銀山。1606年(慶長11)発見,翌年から秋田藩の御直山(おじきやま)となり運上銀で繁栄した。銀山奉行の梅津政景はのち藩老となり,秋田の鉱山行政に後世まで大きな影響を与えた。しかし排水の困難と直山支配のむずかしさから1725年(享保10)全山を山師に請け負わせる請山(うけやま)となったが,産銀からの金の析出に成功すると,1817年(文化14)再び直山となり,以後幕末期には日本一の産銀高をあげた。廃藩後,小野組をへて官営となり近代技術を導入,85年(明治18)古河市兵衛に払い下げられた。1921年(大正10)休山,32年(昭和7)再開されたが,第2次大戦後再び閉山。
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いんないぎんざん【院内銀山】
秋田県雄勝郡雄勝町院内銀山町にある銀山。JR院内駅から西へ5kmの地点で雄物川上流の十分一沢川に合流する銀山川の谷間に広がる。17世紀初頭から20世紀初めまで石見銀山,生野銀山と並ぶ大銀山であった。鉱床は,第三紀のレキ岩,凝灰岩などに覆われたプロピライト(変朽安山岩)中に胚胎する割れ目充てん鉱床で,数条の鉱脈からなり,自然銀,ゼイ銀鉱,濃紅銀鉱などの銀鉱物を多く含み,金を伴う。
[沿革]
1606年(慶長11)に越前敦賀の村山宗(惣)兵衛ら4人の浪人が発見。
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院内銀山
いんないぎんざん
秋田県雄勝郡雄勝町にあった,江戸初期以来の銀山
慶長年間(1596〜1615)の創業で,秋田藩の直営のもとで大銀山となった。寛永(1624〜44)以後一時停滞,幕末の天保年間(1830〜44)に最高の産出を示した。明治維新以後,経営は小野組から明治政府,そして古河市兵衛と移り,現在は休山。
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院内銀山
秋田県湯沢市にあった銀山。1606年発見。最盛期の江戸時代後期に「天保の盛山」と呼ばれ国内最大の産出量を誇った。1954年閉山。
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