開発の経緯については院内銀山記に詳しい。銀山は慶長一一年(一六〇六)越前国
院内銀山日記(雄勝町史)弘化二年(一八四五)二月晦日の記事に「ケンカ人数今日追山仰付らる」、嘉永元年(一八四八)一一月一九日の記事には「盗人三人片びんそり、耳削り御追放に相成」と法度の運用を伝える。
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秋田県湯沢市院内銀山町にあった銀山。JR院内駅から西へ5kmの地点で雄物川上流の十分一沢川に合流する銀山川の谷間に広がる。17世紀初頭から20世紀初めまで石見銀山,生野銀山と並ぶ大銀山であった。鉱床は,第三紀のレキ岩,凝灰岩などに覆われたプロピライト(変朽安山岩)中に胚胎する割れ目充てん鉱床で,数条の鉱脈からなり,自然銀,ゼイ銀鉱,濃紅銀鉱などの銀鉱物を多く含み,金を伴う。
1606年(慶長11)に越前敦賀の村山宗(惣)兵衛ら4人の浪人が発見。秋田藩は宗兵衛らを山先(やまさき)(惣山中の長)として翌年から採掘を開始した。当初,銀産はきわめて豊富で,《院内銀山記》によれば,たちまち山小屋1000軒,下町1000軒という繁盛を示したという。藩は銀山奉行のほか蔵役人や十分一役人らを派遣し,直山(じきやま)として支配した。初期には《梅津政景日記》の筆者で家老にまで昇進した梅津政景が院内銀山奉行として手腕をふるい,1614年には政景を初任として総金山奉行が設けられ,院内銀山奉行から昇任することが例となった。院内銀山の直山支配は当初から湧水に悩まされ,水貫(みずぬき)すなわち排水の成否が銀産を左右した。14年の大浸水までは幕府運上銀は200貫を超え,人口1万の銀山町として栄えたが,引き続く元和・寛永期(1615-44)の運上銀は150貫から50貫へと落ちこんだ。幕府運上銀には,藩が山師,町人ら銀山住民に課した運上・諸役,すなわち(1)採掘を請け負った山師が納める諸運上,(2)商・工の諸営業税である諸役運上,(3)入関税である十分一役,(4)地子,(5)山役といわれる鐺鉈(よきなた)役や炭竈(すみがま)役のうち,山役のほかすべてがあてられた。幕府運上銀は返賜されて藩庫を潤したが,藩財政にとって直山支配の最大の目的は米と鉛の専売収入であった。大人口を集めた銀山は年貢米のかっこうの市場であり,また鉛は銀の製錬にとって不可欠であったから,脇米・脇鉛は死罪をもって禁圧された。1707年(宝永4)ころ,全山の諸坑道を結び大水貫(大排水坑)を兼ねた大切山(大坑道)の完成をみたにもかかわらず退勢は挽回(ばんかい)せず,ついに直山を停止し,請山として全山を山師に請け負わせるに至った。直山支配を困難に追いこんだのはもはや湧水ではなく,直山支配の重圧そのものであった。1813年(文化10)に産銀から金を析出することに成功し,17年に再び直山とされてから,翌18年(文政1)以降銀産は増加に向かい,33年(天保4)から10年間に銀産額は1000貫を超え,金産額も30~40貫に達した。廃藩後,小野組の経営するところとなったが,同組の破産後,秋田県の所管となった。75年に工部省の官営鉱山とされ,79年には御雇外国人P.レウィンら2人のドイツ人技師を招いて西欧の鉱山技術の導入による経営の近代化が進められたが,85年に古河市兵衛に払い下げられた。古河鉱業会社の経営となってから,銀産額は91年には3800貫に,94年には4000貫にと飛躍した。こうして,良鉱を掘り尽くした院内銀山は1921年に休山となり,33年から操業が再開されたものの,第2次世界大戦後には再び休山となって,その歴史を閉じた。
執筆者:山口 梅太郎+山口 啓二
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出羽(でわ)国雄勝(おがち)郡院内(秋田県湯沢市院内銀山町)に開かれた銀山。1606年(慶長11)に村山宗兵衛(そうべえ)らが発見、秋田藩の直営(直山(じきやま))となる。1619年までは運上銀年200貫以上、人口1万の鉱山町として繁栄した。元和(げんな)・寛永(かんえい)期(1615~44)の運上銀は150~50貫を上下し、その後はしだいに衰退した。初期には山奉行(やまぶぎょう)梅津政景(うめづまさかげ)により鉱山行政全般の確立が図られたが、1725年(享保10)には直山から請山(うけやま)となり山師の請負になった。1817年(文化14)以後ふたたび直山となり、生産額は増加し、33年(天保4)から10年間、銀が毎年1000貫を超え、金も30~40貫に及んだ。明治以降は小野組経営や工部省官営を経て、1885年(明治18)古河(ふるかわ)鉱業会社(現古河機械金属)の経営となり、一時は銀産額年間4100貫に達したが、1921年(大正10)には休山となり、以後、操業再開されたが、1954年(昭和29)閉山した。
[村上 直]
『小葉田淳著『日本鉱山史の研究』(1968・岩波書店)』
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秋田県湯沢市の院内銀山町にあった銀山。1606年(慶長11)発見,翌年から秋田藩の御直山(おじきやま)となり運上銀で繁栄した。銀山奉行の梅津政景はのち藩老となり,秋田の鉱山行政に後世まで大きな影響を与えた。しかし排水の困難と直山支配のむずかしさから1725年(享保10)全山を山師に請け負わせる請山(うけやま)となったが,産銀からの金の析出に成功すると,1817年(文化14)再び直山となり,以後幕末期には日本一の産銀高をあげた。廃藩後,小野組をへて官営となり近代技術を導入,85年(明治18)古河市兵衛に払い下げられた。1921年(大正10)休山,32年(昭和7)再開されたが,第2次大戦後再び閉山。
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