漆治郷・直江村・津々志村(読み)しつじごう・なおえむら・つつしむら

日本歴史地名大系 の解説

漆治郷・直江村・津々志村
しつじごう・なおえむら・つつしむら

現直江に所在した国衙領。漆沼とも表記される。建長元年(一二四九)六月日の杵築大社造営所注進状(北島家文書)の相撲一〇番に「治郷 一人」とある。文永八年(一二七一)一一月日の杵築大社三月会相撲舞頭役結番帳の一一番には「津々志村十六丁下野入道女子」「治郷八十丁五反六十歩同人」とみえ、下野入道女子すなわち東国御家人小山氏の一族(藤原姓)が漆治郷と津々志村の地頭であった。地頭が同一であることから、漆治郷から津々志村が分離したとの推定も可能だが、津々志村についてはこれが初見史料で、かつこの時点ですでに独立した所領とされており、両者の関係は不明である。小山氏は承久の乱の恩賞として当郷を獲得したと考えられる。弘安四年(一二八一)と推定される七月一三日の亀山上皇院宣(鰐淵寺文書、以下断りのない限り同文書)によると、朝廷が侍従三位(藤原家教)に対して、当郷の実検に対する国衙の妨げを止めたことを伝えるとともに、恒例供料を加増して、異国調伏の祈祷のため近江日吉社で重ねて読経を行うことを伝えるように指示している。藤原家教は当郷の領家の立場にあったと推定され、これにより当郷の性格が国衙領から庄園へと変化していたことと、当郷の一部が日吉社の供料に充てられていたことがわかる。永仁四年(一二九六)九月五日の関東下知状には「日吉社領出雲国漆治郷」とみえる。正安三年(一三〇一)には当郷が文永院宣と関東下知状の旨に任せて延暦寺に返されているが(同年一〇月四日後宇多上皇院宣)、日吉社領との関係は不明である。

永仁四年の関東下知状は当郷雑掌と一方地頭平顕棟代行康の相論が、田畠一町ずつを地頭に渡し、それ以外の土地を両者が中分するというかたちで和与したことを安堵したもので、翌永仁五年一月には雑掌ともう一方の地頭平氏女代朝資の相論も同内容で解決せよとの命令が出されている(同年正月一二日関東下知状)。こちらの相論は、平氏女側が国衙使を語らって狼藉をはたらくなど長期化し(同年八月二七日関東御教書)、正安二年にも幕府から再度の命令が出ている(同年閏七月一九日六波羅下知状)。当郷の地頭が文永八年の小山氏(藤原姓)から平氏に交替していることが注目される。平顕棟と平氏女(平賀蔵人三郎入道妻)の関係は不明だが、平顕棟の祖父成俊の姉妹に幕府将軍宗尊親王の母がおり(尊卑分脈)、嘉元三年(一三〇五)と推定される五月一三日の式部卿宮令旨(播磨清水寺文書)差出者として「勘解由次官顕棟」がみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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