最新 心理学事典 「災害心理学」の解説
さいがいしんりがく
災害心理学
psychology of disaster
【パニック研究】 パニックpanicとは,予期せぬ出来事に遭遇したときに見られる,突発的な恐怖や不安から引きおこされる心理的な混乱状態を意味する。パニック研究の歴史は古く,体系的な研究としては,1940年代のアメリカ戦略爆撃調査の中で,心理的ストレスや役割葛藤などの分析とともに,パニック現象について理論的・実証的研究が行なわれた。その代表的研究者であるクワランテリE.L.Quarantelliは,パニック行動を脅威からの逃走行動とし,社会的規範が失われた自己中心的な逃走をパニックの特徴とした。危機を回避したり,脅威から避難したりすること自体は適切であり,被害を拡大させかねない行動,つまり規範を逸脱した行動こそが抑制すべき対象となるからである。しかし,たとえば一般住居では在宅人数に比べて緊急時の脱出口は広く,物理的な構造としてパニックが発生しにくい。さらに,現実的な災害場面では,児童と教師など社会的関係が存在し,パニックの発生要因を抑止し援助行動を発生させる条件がある。そのような実態を踏まえて,彼は,パニックの発生はきわめて稀な現象とであると結論づけた。
なお,甚大な災害に遭遇したときに生じる,実際にはパニックが発生していないにもかかわらずパニックが発生するという強い思いこみは,パニック神話とよばれる。この実態と思い込みとの乖離は,日本でも安倍北夫らによってその発生条件が分析された。その後の研究は,買い控えや買い占め,あるいは渋滞や集中によって円滑な社会生活が脅やかされるという,より広義な社会的混乱に関心が向けられた。
【避難行動】 人は,災害の発生が予測されても避難しない傾向がある。その改善が社会的に要請される中で,研究の関心は避難の促進要因へと向かった。災害発生時に避難をしないのは,多くの場合に危険性を直接見聞きすることなく,情報だけで避難すべきかどうか判断を求められるためである。災害発生の前兆現象を五感に感じることは容易ではなく,警報や避難勧告といった災害情報に依存せざるをえない。しかし,情報だけで脅威の程度や切迫感を適切に理解し,避難行動に結びつけることは難しい。
避難行動を規定する要因は,性別,過去の災害体験,知識などの個人要因,周囲の働きかけや規範の認知などの社会的要因,情報伝達の内容やメディアに分けることができる。これらの要因を組み込んだ避難の意思決定モデルも提案されているが,成功しているとはいえない。災害現象の規模や推移,発生の時間帯,避難環境,余裕時間など,避難を巡る周辺環境に幅があり,一般化が難しいためである。
【心のケア】 災害の激甚な被害は,被災者に大きな心の傷を与える。たとえば,家族や知人を失ったり,生活設計の基本である自宅を失ったりする。また,人の行動を支えている,努力すれば報われ悪いことをすれば罰せられるという信念(公平な世界観just world hypothesis)をも覆してしまうことがある。このため,被災者の中には,心的外傷後ストレス障害post traumatic stress disorder(PTSD)の症状を示すものも少なくない。
心的外傷後ストレス障害は,もともとはアメリカ精神医学会『精神障害の診断と統計の手引き』第3版(DSM-Ⅲ)から記載されたが,日本では1993年北海道南西沖地震で初めて,災害の精神健康状態が長期にわたって悪化していることが知られ,1995年阪神・淡路大震災で社会的にも注目を集めた。実践的にも臨床心理士が組織的に心のケアに当たるとともに,その成果を踏まえた岡堂哲雄らの研究も進展した。海外では,1999年の台湾集集地震や2004年のインド洋スマトラ沖地震や2008年四川地震などがあり,アメリカのみならず,アジア諸国においても心のケアの研究や実践が活発化してきている。
被災者だけではなく,救援者,たとえば消防職員や警官,兵士,ボランティアなども,被災現場で凄惨な状況を目の当たりにし無力感にとらわれるなど,心に傷を受けることが知られている。このため,救援者の心のケアも重視されるようになった。日本でも1995年の「地下鉄サリン事件」以降,消防職員を対象とした惨事ストレスcritical incident stress(CTS)対策が実施されるようになってきた(松井豊,2008)。
【多様化する研究領域・研究方法】 1995年の阪神・淡路大震災以降,日本では研究領域や研究方法が拡大した。その一つが,リスク・コミュニケーション研究である。これは,事前の防災対策においても,緊急時の避難行動においても,その対策や行動が円滑に実施されるかどうかは個々人の意思決定に依存し,その意思決定がリスクを適切に認知しているか否かにかかっている。そして,適切なリスク認知をいかに社会の中で共有するかという課題を研究するものである。
また,日本では,阪神・淡路大震災以降,自宅の耐震化や企業の事前対策など広いテーマに研究が拡大した(矢守克也ほか,2005)。
復興過程における心理学的研究も,阪神・淡路大震災以降展開されている研究テーマである。災害によるストレスは被災時によるものばかりではない。生活再建に向けての心労や復興から取り残されていく格差感も,精神的健康状態を悪化させている。さらには,建物や土木施設の復興ではなく,生活の復興を考えるうえで,被災者自らが生活再建をどのように評価しているのかを問う,復興曲線の研究も行なわれている。
これら以外にも,ボランティアについての研究などがあり,研究法も,社会調査法や実験的手法に加えて質的研究法も増えてきている。2011年東日本大震災は,日本のみならず世界的にも災害心理学に関する新たな研究を推し進めるであろうし,また今後いっそう理論的な整備と防災・減災に結びつく学際的な研究が必要となろう。 →流言
〔田中 淳〕
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