無動寺(読み)むどうじ

日本歴史地名大系 「無動寺」の解説

無動寺
むどうじ

[現在地名]真玉町黒土 中黒土

真玉川右岸の県道赤根あかね―真玉線沿いに位置する。山号は小岩屋山。天台宗本尊不動明王。六郷山寺院の一つで中山本寺。もと下黒土の身濯しもぐろつちのみそぞぎ神社に隣接していたといい、その地を通称小岩屋こいわやという。近くには岩屋があり、境内には鎌倉時代から南北朝期と推定される磨崖種子や、塔身に奉納孔とおぼしき穴のある磨崖宝塔などがあり、往時の無動寺の一端がしのばれる。江戸時代末には現在地に移転したといわれる。養老二年(七一八)仁聞菩薩の開基と伝え、長承四年(一一三五)三月二一日の夷住僧行源解状案(余瀬文書)に「小石屋」とみえ、安貞二年(一二二八)五月には、六郷山が関東祈祷所になるのに先立って、一山の将軍家祈祷のための諸勤行・諸堂役祭が注進され(「六郷山諸勤行并諸堂役祭等目録写」長安寺文書)、これには小岩屋山本尊薬師如来とあり、六所ろくしよ権現社前での祈祷を含め年間の諸勤行を記している。

無動寺
むどうじ

[現在地名]柳井市大字阿月 畑

大星おおぼし(四三八メートル)の東南麓、はたにあり、真言宗御室派。小池山と号し、本尊不動明王。

「注進案」によれば、推古天皇の時、百済国から琳聖太子が三明王・二仏を将来し、周防国西南の海に漂着した。夜ごと山に瑞光があるのをみて、太子がその縁由を尋ねたところ、その山が北辰尊影向地、仏法有縁の霊場であることを知り、草庵を結んだのが始まりという。その後、弘法大師が草創の地から六町ばかり山腹の現在地に寺院を移したという。中世には寺勢も栄え、上之かみの坊・下之しもの坊・善幾ぜんき坊・福成ふくじよう寺・円光えんこう寺・地蔵じぞう坊・正覚しようがく坊・清徳せいとく坊・岡之おかの坊・千体せんたい坊・願成がんじよう坊・浄清じようしよう坊の一二宇と寺領三〇〇石があったと伝える。

無動寺
むどうじ

[現在地名]名張市黒田

黒田くろだのほぼ中央、茶臼ちやうす山麓高所にあり、名張盆地のどの地点からも眺められる。秀山密厳院と号し、真言宗醍醐派。江戸時代には醍醐派の中本山として多くの末寺をもっていた。

創建年代は不詳だが、本尊木造不動明王立像は鎌倉時代の作で、国指定重要文化財。建保二年(一二一四)五月日の東大寺領諸荘田数所当等注進状(東大寺続要録)に麦畠新作として「無動寺一段半」とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の無動寺の言及

【延暦寺】より

園城寺日吉大社
[堂塔]
 近江,山城2国にわたる広大な山上の寺域は三塔(東塔,西塔,横川(よかわ)),十六谷に分かれる。東塔は,東・西・南・北・無動寺の五谷より成り,もっとも早く開かれた寺域で,一山の本堂である根本中堂をはじめ,大講堂,戒壇院,文殊楼,総持院,浄土院(最澄の廟所),無動寺等がある。西塔は,東・北・南・北尾・南尾の五谷より成り,834年(承和1)円澄が西塔院を開創したのに始まる。…

※「無動寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

焦土作戦

敵対的買収に対する防衛策のひとつ。買収対象となった企業が、重要な資産や事業部門を手放し、買収者にとっての成果を事前に減じ、魅力を失わせる方法である。侵入してきた外敵に武器や食料を与えないように、事前に...

焦土作戦の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android