内村鑑三によって始められ,弟子の塚本虎二,矢内原忠雄,黒崎幸吉らの活動によって定着したとみられる日本独自のキリスト教。無教会の最初の主張は《基督信徒の慰め》(1893)に現れるが,これは〈不敬事件〉のあとのもので,国家権力からの自由を求めるピューリタニズムの思想が背後にあるとみられる。この主張は同時に,宣教師と牧師の少ない当時にあって制度的教会に頼らない生き方を教え,日本人の伝統的感情に迎えられた。内村はその後非戦論をとなえ,再臨運動をおこして終末論を強調するとともに,贖罪の信仰を深めてキリスト教の実質確保につとめた。その弟子たちが超国家主義を激しく批判しながらも伝道を活発になしえたのは土着性の強みとみられる。また聖礼典(サクラメント)をもたないことで教会と争いながらも聖書研究その他に成果をもったことは,宗教改革をも不徹底としてより深く源泉に帰ろうとする精神の現れとみられる。
執筆者:泉 治典
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
内村鑑三(うちむらかんぞう)の主張したキリスト教のあり方。内村は、札幌農学校在学中から、宣教師による教派主義の弊害を知り、札幌に独立の教会を設立した。その後、フレンド派のキリスト教の影響、強い独立精神、ナショナリズム、教会との関係などから、積極的に無教会主義を表明することになる。「無教会」ということばは、1893年(明治26)に刊行された『基督(キリスト)信徒の慰(なぐさめ)』の「第3章 基督教会に捨てられし時」にみいだされ、1901年(明治34)には雑誌『無教会』を創刊して、そこで「無教会」を「教会の無い者の教会」(第1号)と述べている。また同誌の第3号において「無教会主義」の語も初めて用いられている。内村によれば、教会の建物はもちろん、教師の資格も洗礼や聖餐(せいさん)などの儀礼も、キリスト教に不可欠のものでない。しかし、教会やその儀式・制度をすべて否定するのではなく、のちには「無教会は進んで有教会となるべきである」とも記している。内村は、聖書講義と伝道誌の発行を中心として、その無教会主義のキリスト教を存続させたが、その没後も、無教会主義をめぐる神学的解釈には若干相違があったとしても、ほぼ同じような方法で多くの集会が日本各地で続けられている。
[鈴木範久]
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…日本のキリスト教界を代表する一人。無教会主義の創始者。高崎藩士内村宜之の長男として江戸に生まれ,有馬英学校その他に学んだのち札幌農学校(現,北海道大学)2期生となる(1877)。…
※「無教会主義」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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