南原繁(読み)ナンバラシゲル

デジタル大辞泉 「南原繁」の意味・読み・例文・類語

なんばら‐しげる【南原繁】

[1889~1974]政治学者。東大総長香川の生まれ。無教会主義立場にたち、国家主義マルクス主義批判第二次大戦後の講和問題では全面講和論を展開した。著「国家宗教」。

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精選版 日本国語大辞典 「南原繁」の意味・読み・例文・類語

なんばら‐しげる【南原繁】

  1. 政治学者。香川県出身。東京帝大法科卒。欧州留学後、東大教授。第二次世界大戦中高木八尺田中耕太郎らと終戦工作をはかった。昭和二〇年(一九四五)東大総長。自由主義者として占領下学問の独立を主張した。著「国家と宗教」、歌集形相」など。明治二二~昭和四九年(一八八九‐一九七四

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20世紀日本人名事典 「南原繁」の解説

南原 繁
ナンバラ シゲル

大正・昭和期の政治学者,評論家,歌人 東京大学総長;日本学士院院長。



生年
明治22(1889)年9月5日

没年
昭和49(1974)年5月19日

出生地
香川県大川郡引田町

別名
雅号=白童

学歴〔年〕
東京帝大法科大学政治学科〔大正3年〕卒

経歴
内務省に入るが、大正9年東大に戻り、10年助教授となる。3年間のヨーロッパ留学を経て、14年教授に就任。自由主義的立場を守り、戦時中も軍部に迎合しなかった。20年3月法学部長、同年12月戦後最初の東大総長に就任。占領下において学問の独立を主張、その訓示は警世の言として注目を浴びた。21年には貴院議員となって憲法改正の審議に加わった。22年教育刷新委員会委員長。25年のサンフランシスコ講和条約の締結に際しては、全面講和を唱えて政府と対立、吉田茂首相から“曲学阿世の徒”と非難されても屈しなかった。26年東大総長退任、27年東大名誉教授となる。45年より日本学士院院長を務めた。主な著書に「国家と宗教」「大学の自由」「人間と政治」「フィヒテ政治哲学」「政治理論史」「政治哲学序説」のほか、「南原繁著作集」(全10巻 岩波書店)がある。また歌人でもあり、歌集に「形相」がある。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「南原繁」の意味・わかりやすい解説

南原繁
なんばらしげる

[生]1889.9.5. 香川
[没]1974.5.19. 東京
大正・昭和期の政治学者。1914年東京帝国大学法科大学卒業後内務省に入ったが,1921年退官して母校に帰り,政治学の研究に携わった。無教会派のクリスチャン,理想主義者,自由主義者として独自の学風をつくり,1942年には『国家と宗教』を刊行。第2次世界大戦後の 1945年に東京帝国大学(1947東京大学に改称)総長に就任,演述を通して日本の進路の理想を示した。また 1946年に貴族院議員に勅選され,日本国憲法草案審議に加わるとともに,教育刷新委員会会長として教育制度改革に尽力した。第2次世界大戦の講和問題では全面講和を唱え,半面講和を主張した吉田茂首相と論争。1951年に東大総長を辞任し,以後は学問研究に没頭した。1970年日本学士院院長となり,1973年に著作集全10巻が完結した。歌人としても知られ,歌集『形相』(1948)の著作がある。戦前・戦中の超国家主義批判,戦後の平和の唱道,教育改革などの業績は高く評価されている。

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改訂新版 世界大百科事典 「南原繁」の意味・わかりやすい解説

南原繁 (なんばらしげる)
生没年:1889-1974(明治22-昭和49)

政治学者。香川県出身。1914年東京帝国大学を卒業して内務省に入ったが,21年母校の助教授となり,24年までヨーロッパに留学。25年教授に昇任し,主として政治学史を担任した。学生時代から内村鑑三によってキリスト教の信仰に導かれ,ドイツ観念論の独創的研究を中心に政治の哲学的研究を進め,それを通じて国体という擬似宗教を批判し,その成果を《国家と宗教》(1942),《フィヒテの政治哲学》(1959)にまとめた。45年法学部長に就任して同志と終戦工作を試み,敗戦のあと総長に選ばれて6年間在職。その間学内での演説は広く紹介されて,敗戦後の国民に大きな影響を与えた。また46年貴族院議員となって憲法審議に加わり,47年教育刷新委員会委員長となって教育改革に指導的役割を果たした。49年ワシントンで全面講和を主張。72年より《南原繁著作集》(全10巻)を刊行。完成後日本学士院院長在職のまま逝った。
執筆者:

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「南原繁」の意味・わかりやすい解説

南原繁
なんばらしげる
(1889―1974)

政治哲学者。香川県に生まれる。1914年(大正3)東京帝国大学法科卒業。内務省に入ったが東大に戻り、21年法学部助教授、25年教授。無教会主義キリスト教の信仰、プラトン、カント、フィヒテなどの研究のうえにたって自己の政治哲学を模索し、『国家と宗教』(1942)において鋭いナチズム批判を行った。第二次世界大戦後、45年(昭和20)より51年まで東大総長。その間46年に貴族院議員に勅選され、教育制度の改革にあたった。冷戦のなかで全面講和論を主張し、50年には「曲学阿世(きょくがくあせい)の徒」と非難する吉田茂首相と論争した。50年代中期以降は著作活動に専念し、『フィヒテの政治哲学』(1959)、『政治理論史』(1962)、『政治哲学序説』(1971)などを著した。また歌集『形相(けいそう)』(1948)もある。46年以降日本学士院会員、70年以降同会長。48年より60年まで日本政治学会初代理事長を務めた。

[半澤孝麿]

『『南原繁著作集』全10巻(1973・岩波書店)』『『歌集 形相』(岩波文庫)』『福田歓一編『南原繁書簡集』(1987・岩波書店)』


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大学事典 「南原繁」の解説

南原繁
なんばらしげる
1889-1974(明治22-昭和49)

政治学者。香川県生まれ。第一高等学校を経て,1914年(大正3)東京帝国大学法科大学を卒業。同年内務省に入るが,1921年に辞して東京帝国大学法科大学助教授。ヨーロッパに留学後,1925年教授。政治学の講義を担当し,フィヒテの政治哲学などを研究。学生時代に内村鑑三の聖書講義に加わり,キリスト教を信仰した。第2次世界大戦下,『国家と宗教』(1942年)においてナチズム批判を行った。1945年(昭和20)3月,東京帝国大学法学部長となり,法学部教授とともに終戦工作を試みた。同年12月より6年間,東京帝国大学総長をつとめ,戦時体制の払拭,本郷文教地区構想の提起,憲法問題・インフレーション対策など5項目の総合研究の推進などを実施した。1946年貴族院議員として憲法審議に従事し,47年教育刷新委員会委員長となって教育改革で中心的役割を果たした。1970年に日本学士院長。『南原繁著作集』全10巻(岩波書店,1972-73年)がある。
著者: 冨岡勝

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百科事典マイペディア 「南原繁」の意味・わかりやすい解説

南原繁【なんばらしげる】

政治学者。香川県生れ。東大卒。1925年東大教授,1945年―1951年には総長を務めた。政治の哲学的研究を進め,《国家と宗教》(1942年),《フィヒテの政治哲学》(1959年)を著した。1947年教育刷新委員会委員長となって戦後の教育改革を指導し,学問の自由を訴えた。全面講和を主張してサンフランシスコ講和条約に反対し,吉田茂首相から〈曲学阿世の徒〉と非難されたこともある。敗戦後の社会に大きな影響を与え,貴族院議員,日本学士院院長も務めた。《南原繁著作集》10巻がある。
→関連項目福田歓一

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「南原繁」の解説

南原繁
なんばらしげる

1889.9.5~1974.5.19

大正・昭和期の政治学者。香川県出身。東大卒。一時内務省に勤務したが,1921年(大正10)東京帝国大学助教授,ヨーロッパ留学後の25年に同教授となり,政治学史を担当。第2次大戦後は45~51年(昭和20~26)東京大学総長,同時に貴族院議員として憲法審議に加わり,教育刷新委員会で教育改革にも指導的役割をはたす。講和問題に際しては全面講和を唱えて吉田首相と対立した。著書「フィヒテの政治哲学」。「南原繁著作集」全10巻。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「南原繁」の解説

南原繁 なんばら-しげる

1889-1974 大正-昭和時代の政治学者。
明治22年9月5日生まれ。内務省につとめ大正14年母校東京帝大の教授となる。昭和20年法学部長,総長。25年サンフランシスコ講和条約締結の際,全面講和をとなえて,「曲学阿世の徒の空論」と非難する吉田茂首相と対立した。45年学士院長。日本政治学会理事長。貴族院議員。昭和49年5月19日死去。84歳。香川県出身。著作に「国家と宗教」「フィヒテの政治哲学」など。

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367日誕生日大事典 「南原繁」の解説

南原 繁 (なんばら しげる)

生年月日:1889年9月5日
大正時代;昭和時代の政治学者;評論家。東京大学総長;日本学士院院長
1974年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の南原繁の言及

【イールズ声明】より

…イールズは1949年7月19日,大学教授から共産主義者を排除すべきであると新潟大学で演説し,これを皮切りに全国約30大学を巡回した。この演説は占領軍の勧告と受け取られ,いくつかの大学で辞職勧告の動きがあらわれたが,南原繁東大総長は学問の自由の立場から反対を表明し,全国大学教授連合も総会で反対を決議した。翌年5月2日の東北大学での講演は学生の反対で中止となり,15日の北海道大学の講演では学生,教職員の質問によって退散せざるをえなくなり,イールズの全国行脚は失敗に終わった。…

【教育刷新委員会】より

アメリカ教育使節団に協力すべき日本側教育家の委員会が前身であり,後身は中央教育審議会であるといってよい。各界の識者約50名をもって組織され,発足当初の委員長は安倍能成,副委員長は南原繁で,委員のなかには高橋誠一郎,城戸幡太郎,天野貞祐,務台理作,森戸辰男などがいる。委員会は,46年9月から51年11月までの間に142回の総会を開催し,これと並行して,教育の理念および教育基本法の制定に関する第1特別委員会をはじめ21の特別委員会を設けて調査審議を行った。…

【太平洋戦争】より

… これに対し,知識人を中心とする個人的抵抗にはさまざまな類型があった。消極的抵抗としては,社会主義者の荒畑寒村らのような完全沈黙,作家の谷崎潤一郎や永井荷風,東大教授で政治学者の南原繁らのような非便乗の良心的活動があり,積極的抵抗には,弁護士正木ひろし(個人雑誌《近きより》発行),元東大教授で経済学者の矢内原忠雄(個人雑誌《嘉信》発行)らのような合法的抵抗,奔敵・逃亡などによる軍隊拒否,日本共産党幹部の徳田球一志賀義雄らやキリスト教徒で灯台社日本支部の明石順三らのような獄中抵抗,政治学者大山郁夫,俳優岡田嘉子,日本共産党野坂参三らのような国外での反戦活動があげられる。彼らの抵抗は,現実を動かす実効という点では弱く微力であったが,これらの人々の多くが,敗戦後の民主化された日本社会のなかで大きな足跡を残したことは,特筆されるべき事実であった。…

※「南原繁」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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