正宗白鳥(読み)まさむねはくちょう

精選版 日本国語大辞典 「正宗白鳥」の意味・読み・例文・類語

まさむね‐はくちょう【正宗白鳥】

小説家評論家。本名忠夫。岡山県出身。東京専門学校卒。はじめ読売新聞社に入社して文芸欄を担当。人生に対する懐疑とニヒリズムに支えられた作品を多く発表。自然主義の代表的作家と目される。実感的作家論や回想的評論、戯曲、文芸評論、随筆などにも筆を執った。文化勲章受章。小説「何処へ」「牛部屋の臭ひ」、戯曲「人生の幸福」、評論「文壇人物評論」など。明治一二~昭和三七年(一八七九‐一九六二

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デジタル大辞泉 「正宗白鳥」の意味・読み・例文・類語

まさむね‐はくちょう〔‐ハクテウ〕【正宗白鳥】

[1879~1962]小説家・劇作家・評論家。岡山の生まれ。本名、忠夫。自然主義作家として、虚無的人生観を客観的に描いた。文化勲章受章。小説「何処へ」「泥人形」、戯曲「安土の春」、評論「作家論」など。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「正宗白鳥」の意味・わかりやすい解説

正宗白鳥
まさむねはくちょう
(1879―1962)

小説家、劇作家、批評家。明治12年3月3日岡山県和気(わけ)郡伊里村穂浪(ほなみ)(現備前市穂浪)生まれ。本名忠夫。父浦二は村長、銀行取締役など歴任の大地主。弟妹9人の長男。幼時より病弱で死の恐怖からの救いを求める願望強く、1892年(明治25)『国民之友』でキリスト教を知り、以来1896年東京専門学校(早稲田(わせだ)大学の前身)入学まで隣村のキリスト教講義所や岡山市の薇陽(びよう)学院で、さらには内村鑑三(うちむらかんぞう)の著書などで聖書を熱心に学んだ。上京後も内村の講演にはときに病苦を押しても出席、1897年19歳のとき植村正久(うえむらまさひさ)の教会で受洗、1901年(明治34、この年文学科卒業)「棄教」するまで真摯(しんし)な教会員となった。他方、在学中『読売新聞』文学欄の合評会に出たり、市川団十郎・尾上菊五郎(おのえきくごろう)の歌舞伎(かぶき)に通いつめた。1903年読売新聞社に入社、1910年の退社まで、劇評・美術評・文芸時評・宗教記事等々に縦横にペンを振るった。作家としての処女作は『寂寞(せきばく)』(1904)だが、真に自然主義文学の代表的作家とみなされるのは1907年の『塵埃(じんあい)』をはじめとし、『玉突屋』や『何処(どこ)へ』『五月幟(さつきのぼり)』などによってである。無理想、無解決、幻滅といった当時の自然派の合いことばにふさわしい黄昏(たそがれ)の人生図が優(すぐ)れて描出されたからである。以来60年余、つねに文壇の第一線にたち、小説のみならず戯曲や批評などに彼の創造生活は絶え間なく続けられた。敗戦後も1949年(昭和24)など、71歳にして750枚にも及ぶ長編小説『日本脱出』(未完)を書くほどの旺盛(おうせい)さであった。

 ところで、彼は『何処へ』以来死の年に至るまで人生虚妄の歌をうたい続けた作家、ニヒリスト白鳥とよばれた。理由は二つ考えられる。一つは幼時からに根ざす死の恐怖、人間いかに偉そうにしてもしょせんは死ぬということによる虚妄観、他は欲と欲とが無限に波立ち合う救いがたい人間世界は畢竟(ひっきょう)地獄図にほかならずとする人間実相観である。この二つがこもごも作用しあい彼の胸底深いところから絶えず吹き上げていたもの、それが人生虚妄の思い、濃密なニヒリズムだった。それゆえ、作品のほとんどがこうした死と欲より発する虚無感に彩られており、それは67歳で敗戦を迎えてからのエッセイにおいてとくにその冴(さ)えを示していた。

 しかし白鳥における真は、さらに一歩踏み込んだところにあったことがとかく看過されている。それはともすると内なるニヒリズムに圧倒されながらも、人間が永遠に身を託す世界は現実を超えたところにあるはずというロマンティシズムといえるものを、彼がその虚妄観の裏側に絶えず強烈に潜ませていたことである。その意味から彼の臨終の際の信仰復帰の表明である「アーメン」は当然の帰結だったといえる。なお彼の文芸評論が大正末年以降独得な「私評論」として評論史に特筆されるユニークなものであったこと、および彼の戯曲にはたとえば『人生の幸福』(1924)のように、川端康成(かわばたやすなり)を「恐るべし天才白鳥」と感嘆させるほどのものが少なくなかったことなども銘記されてよい。昭和37年10月28日没。

[兵藤正之助]

『『正宗白鳥全集』全35巻(1983~ ・福武書店)』『大岩鉱著『正宗白鳥』(1964・河出書房新社)』『後藤亮著『正宗白鳥』(1966・思潮社)』『兵藤正之助著『正宗白鳥論』(1968・勁草書房)』『山本健吉著『正宗白鳥』(1975・文芸春秋)』


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改訂新版 世界大百科事典 「正宗白鳥」の意味・わかりやすい解説

正宗白鳥 (まさむねはくちょう)
生没年:1879-1962(明治12-昭和37)

小説家。本名忠夫。岡山県の旧家の生れ。初期には白丁,剣菱,影法師,XYZほかの匿名を使っている。1901年,東京専門学校(現,早稲田大学)文学科を卒業,同校出版部に入る。この間,内村鑑三の感化を受け,植村正久の手で受洗したが,ほどなく教会からは遠ざかった。島村抱月の指導の下で《読売新聞》の〈月曜文学〉欄に批評を書いていたが,03年同社に入社,美術欄で気鋭の筆をふるう。04年11月,《寂寞》を《新小説》に発表したが,小説家として認められたのは07年2月《趣味》に書いた《塵埃》からである。幼少期からの生の不安を基底とする虚無的な作品傾向は,08年の《何処(どこ)へ》以下に続き,自然主義作家としてユニークな地歩を占めることになった。《徒労》《微光》(以上1910),《泥人形》(1911),《入江のほとり》(1915),《牛部屋の臭ひ》(1916)などの作品を残したが,生の倦怠や文筆生活への嫌悪から一時文壇を退いた。しかし1年足らずで復活し,《毒婦のやうな女》(1920),《人さまざま》(1921),《生まざりしならば》などの佳編を生んだ。戯曲にも手を染め,《人生の幸福》(1924),《安土の春》《光秀と紹巴》(以上1926)などで話題を呼んだ。一方,評論家としての活躍でも新領域を開き,《文壇人物評論》(1932),《作家論》(1941-42)としてまとめられたもののほか,《自然主義盛衰史》(1948)や《内村鑑三》(1950)などにすぐれた批評眼を見せている。死に近く,なお《今年の秋》(1959)などの佳編を書きつづけたが,臨終の床でのキリスト教への信仰告白が,この作家の生涯に対する新たな視点の設定をうながすことになった。画家の得三郎,国文学者の敦夫は弟。
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百科事典マイペディア 「正宗白鳥」の意味・わかりやすい解説

正宗白鳥【まさむねはくちょう】

小説家,劇作家,評論家。本名忠夫。岡山県生れ。画家の正宗得三郎,国文学者の正宗敦夫は弟。東京専門学校(現早稲田大学)文学科卒。在学中に受洗。島村抱月の指導の下《読売新聞》に文学評論を書いたがほどなく同紙記者となり美術・文芸欄を担当,劇評などを書いた。《寂寞》《塵埃》によって自然主義派の作家として認められ,《何処へ》《微光》《入江のほとり》《生まざりしならば》その他を書いた。《安土の春》《光秀と紹巴》などの戯曲も書き,《文壇人物評論》(のち《作家論》として増補改編),《自然主義盛衰史》,近松秋江像《流浪の人》など評論にもすぐれている。1950年文化勲章。
→関連項目上司小剣深沢七郎正宗得三郎早稲田派早稲田文学

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朝日日本歴史人物事典 「正宗白鳥」の解説

正宗白鳥

没年:昭和37.10.28(1962)
生年:明治12.3.3(1879)
明治から昭和の小説家。名は忠夫。岡山県和気郡穂浪村(備前市)に,旧家(豪農)正宗家の浦二,美禰の長男として生まれる。弟敦夫,得三郎はそれぞれ国文学者,画家として知られる。虚弱な幼時の生の不安と恐怖が生まれながらの自然主義者といわれる独自のニヒリズムを育てた。旧藩校閑谷黌に学び,明治29(1896)年上京して東京専門学校(早大)英語専修科に入学,キリスト教夏期学校で内村鑑三に学び,翌年,植村正久により受洗。さらに史学科,文学科を経て母校出版部へ,明治36年には読売新聞社に入社した。翌年処女作「寂寞」,明治40年には最初の短編集『紅塵』を刊行。41年『早稲田文学』連載の「何処へ」は出口なき青年の苦悩を描いて「泥人形」(1911)とともに自然主義の代表作となる。また,故郷の人たちを描く「五月幟」,「入江のほとり」,「牛部屋の臭ひ」(1916)などのほか,「安土の春」「光秀と紹巴」(ともに1926)などの戯曲,昭和3~4(1928~29)年の外遊後の「文壇人物評論」,トルストイの家出問題をめぐる小林秀雄との論争,再度の外遊後の「文壇的自叙伝」(1938)などの評論活動がある。戦後は「人間嫌ひ」「日本脱出」などのほか,父母兄弟の死を描いた作品群があり,「リー兄さん」(1961)が遺作となった。臨終時に植村正久の娘環牧師に信仰を告白したため,没後論議を呼んだ。<参考文献>佐久間保明「正宗白鳥」(『新・現代文学研究必携』)

(平岡敏夫)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「正宗白鳥」の意味・わかりやすい解説

正宗白鳥
まさむねはくちょう

[生]1879.3.3. 岡山,穂浪
[没]1962.10.28. 東京
小説家。本名,忠夫。 1901年東京専門学校文学科卒業。島村抱月に師事し,美術,文芸,演劇などの痛烈な批評で注目され,『塵埃』 (1907) により新進作家として認められた。 08年『何処へ』『五月幟』などを相次いで発表,自然主義文学運動の中心作家の一人となった。虚無,冷笑といった否定的人生観を『微光』 (10) ,『泥人形』 (11) に定着,『入江のほとり』 (15) ,『牛部屋の臭ひ』 (16) ,『死者生者』 (16) で円熟を示した。以後,従来の作劇術を無視した『安土 (あづち) の春』 (26) ,『光秀と紹巴』 (26) などの戯曲,小林秀雄との「思想と実生活」論争にみられるようなシニカルな目をもつ評論に活躍。ほかに『文壇人物評論』や『自然主義盛衰史』 (48) ,小説『日本脱出』 (49) ,『今年の秋』 (59) など。 40年芸術院会員。 50年文化勲章受章。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「正宗白鳥」の解説

正宗白鳥 まさむね-はくちょう

1879-1962 明治-昭和時代の小説家,劇作家,評論家。
明治12年3月3日生まれ。37年第1作「寂寞(せきばく)」を発表。「塵埃(じんあい)」「何処(どこ)へ」などで自然主義作家として知られた。のち活動の主力を「内村鑑三」「作家論」などの評論執筆にそそぐ。芸術院会員。日本ペンクラブ会長。昭和25年文化勲章。弟に正宗敦夫・得三郎。昭和37年10月28日死去。83歳。岡山県出身。東京専門学校(現早大)卒。本名は忠夫。
【格言など】畢竟人生は知るにあらで味うにあり(「通人」)

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「正宗白鳥」の解説

正宗白鳥
まさむねはくちょう

1879.3.3~1962.10.28

明治~昭和期の自然主義の小説家・劇作家・文芸評論家。本名忠夫。岡山県出身。東京専門学校卒。代表作「何処(どこ)へ」「入江のほとり」「牛部屋の臭ひ」「毒婦のやうな女」「光秀と紹巴(じょうは)」「今年の秋」。文芸評論では「文壇人物評論」「自然主義盛衰史」が代表作。

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旺文社日本史事典 三訂版 「正宗白鳥」の解説

正宗白鳥
まさむねはくちょう

1879〜1962
明治〜昭和期の小説家
本名は忠夫。岡山県の生まれ。東京専門学校(現早稲田大学)卒。1908年発表の小説『何処へ』以来自然主義作家として平凡な生活を虚無的な筆致で描く。戯曲・文芸批評にも異色を示した。'50年文化勲章受章。ほかに『入江のほとり』『牛部屋の臭ひ』など。

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世界大百科事典(旧版)内の正宗白鳥の言及

【ダンテ】より

… ダンテの作品は,約言すれば,政治と文学との激しい葛藤のなかで生み出された。日本においては,明治時代から《新生》と《神曲》を中心に,かなりの翻訳と紹介が行われてきたが,その傾向を大別すると,第1は上田敏を頂点とする純文学的動機によるもの,第2は内村鑑三,正宗白鳥ら宗教的関心に基づくもの,第3は阿部次郎が築こうとした哲学的・倫理的傾向のもの,そして第4にダンテの文学を政治と文学の葛藤の角度から(とくに第2次世界大戦下の日本の状況と照らし合わせて)とらえようとしたもの(矢内原忠雄,花田清輝,杉浦明平ら)となる。《神曲》の翻訳としては,文章表現と文体に問題は残るが,最も原文に忠実で正確なものとして,山川丙三郎訳を挙げねばならない(1984年現在)。…

【何処へ】より

正宗白鳥の初期代表作。1908年(明治41)1~4月に《早稲田文学》に発表。…

【文壇人物評論】より

正宗白鳥の評論。1932年7月,中央公論社刊。…

※「正宗白鳥」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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