日本の城がわかる事典 「牧之島城」の解説 まきのしまじょう【牧之島城】 長野県長野市(旧上水内郡信州新町)にあった平山城(ひらやまじろ)。西南北の三方を犀川に囲まれ、東側に水堀、西側に空堀をめぐらした東西約280m・南北約330mの本郭を持つ城である。本郭の北には東西約54m・南北約36mの二の郭があった。牧之島城は武田信玄の部将の馬場信春の縄張りによる城だが、それ以前には、鎌倉時代に佐久からこの地に移り、この地を支配していた香坂氏が居城としていた牧城があった。牧城は香坂氏により築城されたといわれているが、築城年代は不明である。1336年(建武3)、香坂氏6代の香坂心覚は牧城を拠点に、北条氏の残党として中先代の乱で挙兵し、北朝方の北信濃の武将の村上氏や高梨氏などと激しく争った。戦国時代に入り、当主の香坂宗重は北信濃の村上義清に与して武田晴信(武田信玄)と戦ったが、義清が越後に逃れると牧城を無血開城し、信玄に臣従した。しかし、のちに上杉氏との内通を理由に誅殺された。その後、宗重の娘を娶った海津城(のちの松代城)の城将の春日弾正昌信が香坂氏の名跡を引き継いだ。香坂昌信は1556年(弘治2)、信玄の命により埴科郡に移り、信玄の重臣の馬場信春を牧島城の城代として入城させ、信春の縄張りにより従来の侍屋敷付近に新たな城が築かれ、牧之島城と名づけられた。この城は山本勘助創始とされている甲州流築城術に基づく城の一つともいわれる。その後、牧之島城は善光寺平と松本を押さえる拠点となった。1575年(天正3)、信春が長篠の戦いで戦死すると、信春の子の馬場昌房が城代として牧之島城を引き継いだ。その後、武田氏が滅亡すると、越後の上杉景勝の属城になり、芋川親正が城主となった。1598年(慶長3)、景勝が越後から会津へと移封されると、田丸直昌、森忠政、松平忠輝ら、代々の海津城の城主の属城となったが、1616年(元和2)、忠輝の改易に伴い、牧之島城は廃城となった。1974年(昭和49)には発掘調査が行われ、史跡公園として整備された。本郭・二の郭跡・濠・土塁・門跡などが良好な状態で現存しており、千人枡形や三日月堀など、甲州流築城術を伝える遺構も残っている。本丸土塁北西側には馬場信房之城跡碑が建っている。JR長野新幹線・信越本線長野駅から新町・大原橋行バス約40分、犀峡高校下車。 出典 講談社日本の城がわかる事典について 情報