日本歴史地名大系 「宮津城下」の解説
宮津城下
みやづじようか
近世の宮津城を中心とした城下町で、その区域は現宮津市のうち明治二二年(一八八九)より宮津町となった地である。
近世の宮津城下の区域は中世の宮津庄の一部であったが、本所の
〔細川氏時代〕
天正八年八月、細川氏は織田信長より丹後国を与えられ宮津に入り、
との許可が下った(細川家文書)。翌九年三月、信長は丹後国の指出を命じた(同文書)。
その結果、同年九月、一色氏とその家臣矢野氏は改めて検地分からそれぞれ二万石、四千五〇〇石の知行を受けることになった。この時一色氏は弓木城に、矢野氏は加佐郡
翌一〇年、本能寺の変で信長がたおれ、同年九月、一色氏は細川氏に宮津で謀殺された。その場所を「細川家記」は一書の説として米田宗堅屋敷とし、その図面に屋敷の西に川と橋があり、橋の西を町として示している。さらに米田屋敷は城外とする一書の説をあげるが、同家記の編者は諸説を検討して宮津城内本丸広間としている。また同家記には、同一〇年六月三日および一色義有が異心を抱く同年八月の記事のなかに、
以上は細川宮津城の位置と完成年代を推測する手掛りとなりうるものである。犬の堂から一八町東へ行くと後世の京極宮津城の位置と重ならざるをえないが、これに近い説を記すものに「宮津旧記」「宮津府志」があり、細川氏の館を「今の城地三の丸の辺に在りしと申伝ふ」としている。なお「丹州三家物語」は「宮津の平地海によつて城郭を築」いたとし、「宮津事跡記」は「八幡山の山城を下宮津市場に引移す、本丸間数東西五十三間余、南北六十間余」としている。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報