宮津城下(読み)みやづじようか

日本歴史地名大系 「宮津城下」の解説

宮津城下
みやづじようか

近世の宮津城を中心とした城下町で、その区域は現宮津市のうち明治二二年(一八八九)より宮津町となった地である。

近世の宮津城下の区域は中世の宮津庄の一部であったが、本所長講ちようこう(跡地は現京都市下京区)、領家の等持とうじ(現京都市北区)との関係は守護一色氏の半済・押妨などによって漸次断たれた。一六世紀前半には「宮津市場」「宮津ゑのしま」が開け(丹後国御檀家帳)、宮津は一色氏の支配下にあった。その後、天正三年(一五七五)から五年間、丹後由良ゆらの尼子勢のように毛利・吉川軍に落された例もあるが、同峯山みねやま(現中郡峰山町)の波多野勢、弓木ゆみのき(跡地は現与謝郡岩滝町)の一色勢、加佐郡の矢野勢、そして丹後全域に散在する多くの城持の国人層は、明智光秀細川藤孝・忠興軍に降参した。

〔細川氏時代〕

天正八年八月、細川氏は織田信長より丹後国を与えられ宮津に入り、八幡山はちまんやま城に陣取った。直ちに宮津平地部での築城の許可を求めたところ、

<資料は省略されています>

との許可が下った(細川家文書)。翌九年三月、信長は丹後国の指出を命じた(同文書)

<資料は省略されています>

その結果、同年九月、一色氏とその家臣矢野氏は改めて検地分からそれぞれ二万石、四千五〇〇石の知行を受けることになった。この時一色氏は弓木城に、矢野氏は加佐郡田辺たなべ奥山おくやま(跡地は現舞鶴市)にいた。

翌一〇年、本能寺の変で信長がたおれ、同年九月、一色氏は細川氏に宮津で謀殺された。その場所を「細川家記」は一書の説として米田宗堅屋敷とし、その図面に屋敷の西に川と橋があり、橋の西を町として示している。さらに米田屋敷は城外とする一書の説をあげるが、同家記の編者諸説を検討して宮津城内本丸広間としている。また同家記には、同一〇年六月三日および一色義有が異心を抱く同年八月の記事のなかに、いぬの堂が宮津から一八町の所にあるとしている。また、慶長五年(一六〇〇)田辺籠城の際の七月一七日、藤孝らは支度を整えて「宮津の裏門より出、御舟にて御越被成候」としている。

以上は細川宮津城の位置と完成年代を推測する手掛りとなりうるものである。犬の堂から一八町東へ行くと後世の京極宮津城の位置と重ならざるをえないが、これに近い説を記すものに「宮津旧記」「宮津府志」があり、細川氏の館を「今の城地三の丸の辺に在りしと申伝ふ」としている。なお「丹州三家物語」は「宮津の平地海によつて城郭を築」いたとし、「宮津事跡記」は「八幡山山城を下宮津市場に引移す、本丸間数東西五十三間余、南北六十間余」としている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の宮津城下の言及

【宮津[市]】より

…JR宮津線,国道178号線が通じるが,市域北部の山間地域では過疎化が進む。【浮田 典良】
[宮津城下]
 宮津は古代より運輸・交通の要地で,地名は平城宮跡出土木簡に〈宮津郷烏賊二斤〉とみえるのが初見。中世には長講堂領宮津荘があった。…

※「宮津城下」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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