猿渡村(読み)さわたりむら

日本歴史地名大系 「猿渡村」の解説

猿渡村
さわたりむら

[現在地名]矢部町猿渡

間谷まんたに(八一二メートル)の南麓、猿渡川(筒川および瀬峰川)周辺に集落が散在する。西は三箇さんが村、南は柚木ゆのき村に接する。正平九年(一三五四)八月一三日の肥後矢部郷村注文(阿蘇家文書)に「さわたり」とみえ、貫高は一三貫七〇〇文。字宮の前みやのまえの南を除く三方を猿渡川に囲まれた比高八〇メートルの独立丘陵上に猿渡城跡がある。永正年間(一五〇四―二一)早川そうがわ(現甲佐町)城主早川政秀の築城といわれ(国誌)、天正一三年(一五八五)島津氏に攻め落された。慶長国絵図には「佐渡村」とみえる。矢部手永に属し、「国誌」は小村瀬峯せみね村・鬼原村・引(挽)地村・中尾村・鶴村・小ヶ蔵村・今村・山中村・中園村かこい(囲)村・五谷いつつだに村を記す。


猿渡村
さるわたりむら

[現在地名]宇佐市猿渡

たか村の西、伊呂波いろは川東岸中流域にある。北東時枝ときえだ村。観応二年(一三五一)正月日の土井種世軍忠状(成恒文書)に「同郡馳向猿渡致合戦」、文明八年(一四七六)三月一〇日の某所坪付注文(金光文書)に「サルハタリ」とみえる。当地と高村にかけての丘を糸口いとぐち山という。元応三年(一三二一)二月二日の弥勒寺公文所定文写(今仁恕子文書)には「糸口百塔ケ平経塚在之、猿渡河」とあり、当地を流れる伊呂波川を猿渡川とよんでいる。正平六年(一三五一)一二月二六日の都甲惟元軍忠状(都甲文書)に「糸口原合戦」とみえる。慶長六年(一六〇一)の畠方御検地帳(田口隆文書)が残り、同検地帳の末尾に「惣合」一八町九反五畝五歩、分米一一一石とある。


猿渡村
さるわたりむら

[現在地名]小笠町猿渡

目木もつき村の西、牛淵うしぶち川の支流丹野たんの川の右岸に位置し、村の南を東西秋葉街道(信州街道)が通る。正保郷帳に村名がみえ、田方一二一石余・畑方二一石余、「芝山」の注記がある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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