中園村(読み)なかそのむら

日本歴史地名大系 「中園村」の解説

中園村
なかそのむら

[現在地名]安岐町中園

安岐川下流右岸の沖積平野、南を流れる支流荒木あらき川を隔てて南は西本にしもと村、西は成久なりひさ村。小倉藩元和人畜改帳に村名がみえ、上中園村は給人二名の知行地で、高五〇一石余、家数八二、うち百姓一二、庭屋・へや・名子六九、人数八六、うち百姓一二・名子四、牛二〇・馬五。長岡興長知行の中園村は高三三〇石、家数二三、うち百姓九、隠居・名子・へ屋・庭屋・牛屋一四、人数三六、うち百姓九・名子四、牛六。


中園村
なかぞのむら

[現在地名]三瀬村大字三瀬字中園・今原いまばる釜頭かまのとう

三瀬峠に通じる三瀬山道にあり、初瀬はつせ川に沿って開けた盆地。正保絵図に村名がみえる。釜頭の南方に石鏃が出土した縄文遺跡がある。

今原に杉神社があり、祭神は仲哀天皇・神功皇后・武内宿禰。杉大明神ともいう。社伝によれば文永元年(一二六四)野田周防守(大江清秀)が家来を率いてこの地にいったん居を構えたが、ここが古くから清浄の霊地とされていたので他に要害の地を探し、山中やまなかに館を構えて金山かなやま城を築き、一帯を掌領したという。のち杉屋敷すぎやしきには杉神社を造営し、筑前国香椎かしい(現福岡市)から分霊を奉招し、杉一万本を寄進し、これを境内に植えて神木とした。


中園村
なかぞのむら

[現在地名]日南町新屋にいや

北東流する日野川最上流部右岸にあって、同川に支流津久谷つくだに川が合流する。村内を日野往来が縦断し、北は新屋村。「ナカゾ」ともいう。正徳元年(一七一一)郷村高辻帳に「古ハ中薗村」と注される。拝領高は九四石余、本免は六ツ四分。幕末の六郡郷村生高竈付では生高一三四石余、竈数一五。「伯耆志」では林一七町四反余、家数一五・人数七六、鑪山の津久谷山と社倉があった。天保九年(一八三八)の巡見一件諸事控(西古家文書)によると、鑪一に一二〇匁、鍛冶屋一に六〇匁の運上銀が課されていた。


中園村
なかぞのむら

[現在地名]岡崎市中園町

矢作川右岸の自然堤防上にあり、かつては矢作本流と支流に挟まれた中州に立地した。北から東は舳越へごし村、西は橋目はしめ村・東大友ひがしおおとも村、南は西矢作にしやはぎ村に接する。近世を通じて岡崎藩領で上野手永に属す。長瀬ながせ村七ヵ村の中央にあって、上野手永(大庄屋)岩槻氏が居住し、阿弥陀堂あみだどう(現豊田市)の伊予田氏と交互に三七ヵ村を支配した。


中園村
なかぞのむら

[現在地名]芦北町大野おおの

大野盆地のほぼ中ほどにあり、北は大野村、南は松生まつばえ村に接する。寛永一六年(一六三九)の葦北郡地侍御知行割帳(徳富文書)に中薗村とある。湯浦手永に属し、延宝三年(一六七五)の葦北郡湯浦手永小村限御帳(芦北町誌)によれば、男女七六、うち女三二、一五歳から六〇歳までの男二三人のうちには四人の郡筒が含まれ、竈数一〇、馬二・牛一とある。


中園村
なかぞのむら

[現在地名]鹿野町中園

宮方みやかた村・寺内てらうち村の北、勝見かちみ谷中央部に位置する。北は木梨きなし村。拝領高は二一〇石余、本免は五ツ九分。藪役銀九分が課せられ(藩史)、熊沢氏・池田氏の給地があった(給人所付帳)。「因幡志」では家数二二。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

プラチナキャリア

年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...

プラチナキャリアの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android