橋本宿(読み)はしもとしゆく

日本歴史地名大系 「橋本宿」の解説

橋本宿
はしもとしゆく

中世東海道の宿。史料にはたんに橋本のほか、橋下駅などともみえる。古代より名勝浜名橋の所在地としてその風光をうたわれ、また鎌倉と京とのほぼ中間にあたることから交通や戦略上の要地であった。「玉葉」治承四年(一一八〇)一一月二三日条に「三宮(以仁王)御坐遠江橋下宿」とみえる。ただし以仁王はすでに死んでおり、橋本にいたことは伝聞にすぎず、「玉葉」の記主九条兼実も「不審物也」と記している。源頼朝の鎌倉挙兵に対し、後白河上皇は養和元年(一一八一)閏二月に頼朝追討の院庁下文を発した(「吾妻鏡」同月一五日条)。そこで頼朝は守護安田義定らに「浜松庄橋本辺」が要害であるのでそこで平氏軍に備えるよう命じている(同書同月一七日条など)。なお「源平盛衰記」巻二三によれば治承四年一〇月六日、頼朝追討のため東海道を下る平維盛らが橋本に着いている。文治元年(一一八五)三月平氏が長門壇之浦だんのうらで滅亡後、源義経が平宗盛らを鎌倉に連行して橋本を通過した(同書巻四五)。「吾妻鏡」建久元年(一一九〇)一〇月一八日条によれば、上洛する頼朝が橋本駅に宿した時、群参した遊女に頼朝は多くの贈物を与えている。この遊女たちは橋本以外の者もおり、街道筋を遍歴して芸能を披露する者もいたと思われる。「増鏡」第二にもこの時の様子を「例の遊女、多くえもいはず装束きてまいれり」と記している。頼朝は京都からの帰りにも当地に宿泊した(「吾妻鏡」同年一二月二〇日条)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

百科事典マイペディア 「橋本宿」の意味・わかりやすい解説

橋本宿【はしもとのしゅく】

遠江国にあった古代末期から中世の宿駅。橋下宿とも書く。現在の静岡県新居(あらい)町(現・湖西市新居町)浜名付近に比定される。東の浜名湖口に浜名橋があり,そのたもとにあたることから橋本(橋下)と呼ばれたという。《玉葉》治承4年(1180年)11月23日条に〈遠江橋下宿〉とみえる。1190年源頼朝が上洛に際して当地に宿泊し,その際に遊女などが群集したという。《海道(かいどう)記》《東関(とうかん)紀行》など中世の紀行文にたびたび登場する一方,承久(じょうきゅう)の乱中先代(なかせんだい)の乱などでは軍事的要衝として重視されている。1498年の大地震と1510年の〈高波〉(台風による高潮とみられる)によって,宿駅としての機能を失った。近世においては新居宿(現湖西市新居町新居)に東海道の宿駅の地位を譲り,遠江国敷智(ふち)郡橋本村となった。

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