にじょう‐けニデウ‥【二条家】
- [ 一 ] 藤原姓。五摂家の一つ。九条兼実の孫、道家の子良実が東二条院を伝領して二条京極に住み、二条を称としたところから始まる。
- [ 二 ] 鎌倉時代から室町初期まで続いて歌道を伝えた家系。御子左(みこひだり)家の嫡流で、藤原為家の子為氏を祖とするが、為氏の子為世から二条家と号した。典雅で保守的な歌風によって京極家や冷泉家と対抗したが、おおよそ、常に歌壇の主流を占め、大覚寺統の後宇多・後醍醐天皇の庇護によって「新後撰和歌集」「続千載和歌集」「続後拾遺和歌集」を、その後足利氏と結び付いて「新千載和歌集」「新拾遺和歌集」「新後拾遺和歌集」を撰進した。為重で血統は絶えたが、その歌道は為世の弟子頓阿の門流を通して伝えられ、東常縁・宗祇・三条西実隆・細川幽斎と受け継がれ、江戸時代に至るまで歌壇の中心にあった。
- [初出の実例]「二条家(御子左)の御教は、言もかかりも、三代集を出でざれとならし」(出典:不審条々(1403))
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二条家(五摂家)【にじょうけ】
藤原氏北家(ほっけ)の嫡流,五摂家の一つ。九条道家の次男良実(よしざね)を始祖とする。しばしば摂政・関白に補せられ,南北朝期の摂関で歌人としても知られる二条良基などが輩出。明治期に入って公爵となる。
→関連項目九条家
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二条家 (にじょうけ)
藤原氏北家の嫡流。五摂家の一つ。九条道家の次男良実を始祖とし,家号は良実の殿第に由来するが,二条の坊名にちなんで銅駝(どうだ)の称もある。承久の乱後,時の権臣西園寺公経の女婿九条道家は,みずから摂政・関白に就任したばかりでなく,教実,良実,実経の3子を次々に摂関の座につけ,九条家の全盛を謳歌した。ところが1246年(寛元4)の名越氏,翌年の三浦氏の乱に関連して,道家および摂政実経が失脚するや,道家はこれを前関白良実の幕府に対する誣告(ぶこく)によるものと推断し,良実を義絶した。しかし道家の没後,良実は関白に再任され,以後子孫は近衛,鷹司,九条,一条の諸家と並んで摂関に任ぜられ,五摂家の一つとなった。鎌倉末期,4代道平は弟師基とともに後醍醐天皇の討幕・新政に参画し,師基は建武政権の崩壊後も吉野に仕えて関白となり,その子孫教基,冬実も南朝で関白や大臣になったという。一方,道平の男良基は北朝に仕えてしばしば摂政・関白に任ぜられ,観応の擾乱(じようらん)(1350-52)に際しては,後光厳天皇を擁立して北朝の危機を救い,北朝の重鎮として公武の間に重きをなした。その後も同家の公武協調の姿勢は変わらず,江戸時代に入ると,昭実は幕府の《禁中並公家諸法度》の制定に協力し,その男康道以降は代々将軍の猶子となってその名の1字をもらいうけるのを例とした。幕末の難局に際して関白になった斉敬(なりゆき)は,公武合体派の重鎮として孝明天皇の信任を受け,長州処分や条約勅許などの困難な問題を処理し,明治天皇の践祚とともに摂政となり,王政復古による摂関廃職まで在職した。二条家の所領は,始祖良実が父道家に義絶され,家領の譲与にあずからなかったので,その全容は明らかでないが,江戸時代には知行1708石余。明治に入って華族に列し,公爵を授けられた。
また,中世の歌道家で御子左(みこひだり)家の嫡流も二条家といい,藤原為家の子為氏を祖とし,その子為世から二条を号したが,中世後期に絶えた。
執筆者:橋本 義彦
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二条家
にじょうけ
(1)藤原氏。五摂家(ごせっけ)の一つ。鎌倉中期九条道家(くじょうみちいえ)の第2子良実(よしざね)を祖とする。二条京極(きょうごく)の邸に住んだところから二条と称す。良実は1242年(仁治3)関白(かんぱく)となり、以後子孫は他の摂家と並び立った。鎌倉末期道平(みちひら)は後醍醐天皇(ごだいごてんのう)の討幕計画に加わり、弟師基(もろもと)は南朝に仕えた。道平の子良基(よしもと)は北朝に仕え、学者としても有名。その孫が足利義満(あしかがよしみつ)の諱(いみな)一字をもらって満基(みつもと)と称して以来、室町時代、江戸時代を通じて代々足利・徳川将軍の諱を一字もらうことを例とした。江戸時代の知行高(ちぎょうだか)は1700石。明治維新後、公爵を授けられた。
[飯倉晴武]
(2)藤原氏の一族、御子左(みこひだり)家の子孫(鎌倉後期~南北朝時代)の家名。定家(ていか)の子為家(ためいえ)の長男為氏(ためうじ)を祖とする。定家の二条京極邸の中の二条大路側の家を伝領したゆえの名で、「二条」と号したのは子の為世(ためよ)からである(為氏は「藤原」とのみ)が、同じく為家の子為教(ためのり)の京極家、為相(ためすけ)の冷泉(れいぜい)家にそろえて為氏からをさすのが普通。俊成(しゅんぜい)・定家以来の歌道師範家の嫡流として重きをなし、両統分立以後は京極・冷泉家(派)が持明院統(じみょういんとう)と結び付いたので、いきおい大覚寺統と結び付き、為氏が『続拾遺集』を撰(えら)んで以来、代々勅撰(ちょくせん)撰者となった。
南北朝分裂後、北朝で一時勢力を失ったが、為定(ためさだ)(為世の孫)が将軍足利尊氏(たかうじ)の支持を得てふたたび師範家となり、3勅撰集をなした。しかし南北朝時代末期に人材を欠き、あるいは殺害されて断絶した。
[福田秀一]
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二条家
にじょうけ
1藤原氏北家嫡流の九条家支流。五摂家の一つ。鎌倉中期の九条道家の次男良実(よしざね)に始まる。家名は良実の二条京極第による。道家は承久の乱後,朝廷を統轄して九条家の全盛期を築いたが,かねて良実とは仲が悪く,1246年(寛元4)の名越(なごえ)光時の乱(宮騒動),翌年の宝治合戦に関連して失脚したのは,良実の誣告(ぶこく)によるものとみて義絶した。道家没後,良実は関白に再任。以後他の摂家と並んで代々摂関に任じられた。鎌倉末期,道平は後醍醐天皇に仕えたが,子の良基(よしもと)は北朝の重鎮。江戸時代の家禄は1708石余。康道以降,将軍の偏諱(へんき)をうけた。維新後,基弘のとき公爵。
2藤原氏御子左(みこひだり)家の嫡流。歌道の家。鎌倉中期の藤原為家の子為氏に始まる。その子為世から二条と号し冷泉(れいぜい)・京極家と対立。中世後期に断絶。
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二条家
にじょうけ
(1) 藤原氏北家の一支族。五摂家の一つ。鎌倉時代,九条道家の子良実が京都二条に住んで,二条を称したことから始り,以後代々ほかの摂家と交代して摂政,関白に任じられ,明治になって公爵。 (2) 和歌の一家。鎌倉時代,藤原為世が曾祖父にあたる藤原定家の二条邸を伝領して,和歌の流派「二条流」を称したのに始る。代々歌学をもって栄えた。
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二条家
にじょうけ
①中世〜近世,五摂家の一つ
②鎌倉時代以来の歌学の家
鎌倉中期,九条道家の子良実 (よしざね) が,二条京極に住み二条と称して九条家から分立。良実は関白となり,以後交互に摂関に任ぜられた。この流では二条良基が有名。
藤原定家の孫為氏を祖とし,冷泉・京極家と対立。伝統を重んじ,歌風は温雅平淡で,歌壇の中心をなした。
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世界大百科事典(旧版)内の二条家の言及
【歌論】より
…その他,阿仏尼の《夜の鶴》,二条為世の《和歌庭訓》等,鎌倉期に書かれた〈歌論〉の数は多いが,文学的に見て意義の認められるものはほとんどない。為家の子の代で,二条家,京極家,冷泉(れいぜい)家と歌の家が三つに分裂し,以降,派閥争いが激化したために,〈歌論〉も本質を理論的に深めるという方向ではなく,派閥意識をあらわにして,他派を攻撃するケースが増えていったからである。たとえば《[野守鏡](のもりのかがみ)》は作者未詳の歌論書であるが,二条派の立場に立って為兼を初めとする京極派を攻撃した書であったし,《延慶両卿訴陳状(えんきようりようきようそちんじよう)》と呼ばれる,《玉葉和歌集》の選者をめぐっての二条,京極両家の厳しい対決を伝える応酬もある。…
【十三代集】より
…勅撰和歌集([二十一代集])のうち,第9集以後の《[新勅撰和歌集]》《続(しよく)後撰和歌集》《続古今和歌集》《続拾遺和歌集》《新後撰和歌集》《[玉葉和歌集]》《続千載和歌集》《続後拾遺和歌集》《[風雅和歌集]》《新千載和歌集》《新拾遺和歌集》《新後拾遺和歌集》《新続古今和歌集》の13の集をいう。 勅撰和歌集は,[八代集]の最後を飾る《新古今集》で芸術至上主義的な極致に達し,その後は歌の家としての権威を確立した御子左(みこひだり)家,特にその嫡流の[二条家]の主導で,平明を基調として展開する。藤原定家が1235年(嘉禎1)に撰じた《新勅撰集》は平淡な歌風を特色とするが,藤原為家撰の《続後撰集》(1251)はそれをいっそう進めて,内面的な深みのある平淡な歌風を確立する。…
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