大学事典 「理系のカリキュラム」の解説
理系のカリキュラム
りけいのカリキュラム
curriculum for science and engineering education
[自由七科とアリストテレス]
理系のカリキュラムは中世大学にその起源をもつ。パリ大学における教皇使節ロベール・ド・クールソンの規約(1215年)が教養諸科(学芸学部)における一般教育のカリキュラムの観念の始まりとされ,「四科」の算術,幾何学,音楽,占星術(まだAstrologyで,天文学のAstronomyではない)がこの時点で教授されていた。最終学位取得に向けた講義科目の段階的学習もすでに中世大学においてみられ,たとえば14世紀後半のウィーン大学(オーストリア)では,学生はまず学芸学部で最低2年間,ラテン語文法,修辞学,数学,弁証法など教養諸科の基礎的科目や道徳哲学(アリストテレス)などを学んでバカラリウスを取得し,さらにその後,リケンティアトゥス(教授免許取得者)になるためには,アリストテレスの天体・宇宙論,生成消滅論,気象論,形而上学・トピカやエウクレイデス5巻などを学習して試験に合格する必要があった。15世紀のボローニャ大学(イタリア)でも,医学学位の取得にはアリストテレスの「自然学」「生成消滅論」「天体論」「気象論」「霊魂論」「形而上学」などの教養諸学を3年間学んだ上で,医学部でのアヴィケンナの「医学典範」やアヴェロエス「医学原論」などの講義を受ける必要があった。物質の運動(自然学)や,人間の視覚や聴覚(霊魂論),雨,風,雷,彗星(気象論)などを取り扱ったアリストテレスの科学的,哲学的著作は,12~13世紀のアリストテレスの諸著作の西洋世界への流入によって拡大・変容した自由七科に加えて,中世を通じて大学カリキュラムの中核部分を占めていた。
[実験と論文の登場]
しかし中世大学においては,基本的に書物を用いた講義(討論などを含む)があるのみで,自然科学の特徴である対象に働きかける「実験」は行われることがなかった。16世紀になると,数学と実験を重視して今日の物理学につらなる機械学を打ち立てたパドヴァ大学のガリレオ・ガリレイが登場して,学問のあり方に革新をもたらした。これを契機に,アカデミーなどの大学外組織での実験的研究の時代を経て,19世紀に至ってドイツ大学で研究を行う「実験室」が登場した。ギーセン大学(ドイツ)の化学者リービッヒ,J.vonの実験室がその代表格である。また,18世紀に入るとドイツの大学で学位の取得にDissertation(学位論文)の提出が求められるようになった。ゲッティンゲン大学(ドイツ)では,1770~72年には数学の,1806~08年には化学の学位論文が提出されている。この「実験」や「学位論文」は日本の大学にも受け継がれていく。
[日本の大学と理系カリキュラム]
日本では,カリキュラムに基づく系統的な理系教育は1877年(明治10)創立の東京大学で始まった。理学部工学科では純正および応用数学,物理学,陸地測量,熱動学および蒸気機関学などの講義と実習,英語と第二外国語(フランス語またはゲルマン語[それぞれ法蘭西語,日耳曼語と表記]),最終学年(当時4年制)では機械工学科での材料試験,土木工学科での測地術などに加えて,それぞれ卒業論文が課せられた。このカリキュラムの形式は,数学・物理学・及星学科(設立当初は一体で運営),生物学科,化学科,地質学及採鉱学科においても同じであった。語学も重視され,1881年には理学部全学科でドイツ語必修(「必ず兼修せしむ」『東京帝国大学五十年史 上』)となった。日本の大学の理学部や工学部で今日まで続いている講義,実験,語学,卒業論文による教育形式はここに始まるといえる。1886年に帝国大学が誕生し,理科大学,工科大学,医科大学が設立され,90年に農科大学が加わったが,数学や物理学などの専門基礎科目,各専門科目,実験,卒業論文(理科大学と医科大学を除く)を履修するカリキュラムの骨格は,帝国大学においても維持された。
その後,1918年(大正7)の大学令,47年(昭和22)の学校教育法の施行を経て,2012(平成24)年度現在,国公私立大学あわせて772大学に農学部,薬学部,医学部,歯学部を含めて477の理工系学部(日本)が存在するが,授業内容の変化,大学設置基準の大綱化(1991年)以前の一般科目に相当する科目の導入を除けば,基本的なカリキュラムの構造は旧制帝国大学時代と本質的には変わっていない。すなわち,①専門基礎としての数学,物理,化学等の科目の履修,②専門科目およびそれと統合させる形での実験・実習科目の存在,③卒業研究の必修制(医学部・歯学部を除く),そして,④専門分野を学ぶ外国語としての語学の重視である。①は中世大学において教養諸科と専門学部における講義の履修順序においてすでに存在し,②は遅くとも19世紀でのドイツ大学での実験室の登場を背景とし,そして③は,②とも関係するが,研究のカリキュラム化ともいえる研究の授業への導入であり,ドイツ大学での学位論文提出にもその起源を持つ。この中でとくに,③の卒業研究(論文)の制度化は,日本の大学において,学部学生の学術研究への参加を規定した画期的なものとして位置づけられよう。また語学の重視は,当初は西洋学術の受容のためという側面もあったが,共通の言語で成果を交換・発信するという理系学問の性格に由来するその必要性を先取りしたものともいえる。
このように,日本における理系のカリキュラムは,中世大学以来の歴史を受け継ぎつつ,独自の学部カリキュラムとして発展してきたものである。今後は専門教育の内容と深さにおいて,科目を学部と大学院でいかに分担・共有していくかが課題の一つとなろう。また理系科目を含むカリキュラムは,理系を専攻分野としない学生のためにも重要である。大学設置基準の大綱化によって,教養課程で専攻分野によらず自然科学を学ぶという枠が取り外された現在,自然科学非専攻の学生が自然科学を大学でいかに学ぶか,そのためのカリキュラム設計のさらなる展開も課題である。
著者: 赤羽良一
参考文献: 『東京帝国大学五十年史 上・下』東京帝国大学,1932.
参考文献: R.D. アンダーソン著,安原義仁,橋本伸也監訳『近代ヨーロッパ大学史』昭和堂,2012.
参考文献: William Clark, Academic Charisma and the Origins of the Research University, The University of Chicago Press, 2006.
参考文献: 児玉善仁『イタリアの中世大学―その成立と変容』名古屋大学出版会,2007.
参考文献: H. ラシュドール著,横尾壮英訳『大学の起源―ヨーロッパ中世大学史(3冊)』東洋館出版社,1968-70.
参考文献: E. グラント著,横山雅彦訳『中世の自然学』みすず書房,1982.
参考文献: 別府昭郎『ドイツにおける大学教授の誕生』創文社,1998.
参考文献: Edward E. Grant, God and Reason in the Middle Ages, Cambridge University Press, 2001.
出典 平凡社「大学事典」大学事典について 情報