生津村(読み)なまづむら

日本歴史地名大系 「生津村」の解説

生津村
なまづむら

[現在地名]三潴町生岩いきいわ

岩古賀いわこが村の東、やま川の下流右岸沿いにある。鯰とも書く。クリーク(濠)を掘り巡らせた環濠集落中世三潴庄のうち。永仁四年(一二九六)一二月日の玉垂宮并大善寺仏神事記文(御船文書/鎌倉遺文二五)によると、鯰空閑には大善だいぜん玉垂たまたれ(現久留米市)の祓河橋免田二町があった。貞和三年(一三四七)九月二二日の高良玉垂宮并大善寺仏神免田注文写(同文書/南北朝遺文(九州編)二)や同月の玉垂宮并大善寺仏神免田注文写(同上)によると、鯰空閑に現役田と人給等として祓河橋免一町・西坂本灯油田二町があった。応永二五年(一四一八)二月二八日の報恩寺寺領坪付注文(隈文書/久留米市史7 資料編古代・中世)によると、「鯰村」には大善寺定額免のうち長禅坊分の四反と一反の免田があった。

生津村
なまづむら

[現在地名]穂積町生津

上本田かみほんでん村・下本田村・只越ただこし村の東から北に位置し、東を長良川とその支流天王てんのう川、西から南を糸貫いとぬき川に挟まれた平坦低地に立地。糸貫川は当村東南端で長良川に合流。おもな集落は糸貫川沿いの上生津・下生津で、南北に細長い。北境を中山道が東西に通り、町並が続く。中世には生津庄が成立。天正一一年(一五八三)七月に稲葉一鉄は伊勢神宮に「生津」から一貫文を寄進している(「稲葉一鉄初尾奉納目録写」稲葉家譜)

生津村
なまづむら

[現在地名]尼崎市武庫之荘西むこのそうにし二丁目・武庫之荘一―四丁目・南武庫之荘みなみむこのそう一―三丁目・同五丁目

川辺かわべ水堂みずどう村の北に位置し、東は同郡東富松ひがしとまつ村。慶長国絵図にナマツ田村と記され、高二六七石余。元和三年(一六一七)の摂津一国御改帳に村名がみえ幕府領(建部与十郎預地)。同年尼崎藩領となって明治に至る(尼崎市史)。用水は武庫川水系武庫井掛り(同書)

生津村
なまづむら

[現在地名]伏見区よど生津町

旧木津川左岸沿いに集落があり、北・東は久世くぜ郡、南は川口かわぐち(現八幡市)、西は際目さいめ村に接する。

中・近世には八幡庄(現八幡市)そと四郷の一として推移明治元年(一八六八)に綴喜郡生津村となった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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