翻訳|garden city
イギリスの社会改良家E.ハワードは1898年に発表した《明日--社会改革への平和的進路》(1903年《明日の田園都市》と改題)のなかで,産業革命以降の都市労働者の悲惨な労働・居住環境を改善するため,都市および農村の魅力を併せもち,均衡のとれた社会の形成を目ざす田園都市構想を提案して非常な注目を浴びた。ハワードの田園都市提案は次の三大特色をもっている。(1)都市規模を人口3万~5万人に限定した。(2)外周をグリーンベルトまたは田園で取り囲んだ。(3)工業を主とする企業を導入して自己完結的ないし自足的都市を企図した。都市はその過大化とともに多くの都市問題が発生し,人間的な生活環境が阻害されるようになる。彼は既存都市の過大化を防ぐための人口分散を促進するとともに,田園都市自体の膨張を防ぐため,厳しくその規模を限定しようとした。次に住民が手軽に自然環境に親しむことができ,また周辺の農村地域内に開発がスプロール化しないようグリーンベルトや田園で取り巻くことを提案した。最後に工場や企業を誘致して,職場と家庭が直結された均衡のとれたコミュニティを形成することにより,独立した機能をもつ都市の開発を目ざし,いわゆるベッドタウン的な郊外住宅開発を排除しようとした。
彼の提案が大いに注目された理由の一つに,その具体性があげられる。彼は田園都市を実現するための財政上の課題につき綿密に検討し,とくに開発地を公有化することにより,地価上昇による利益をコミュニティに還元させようと企図した。彼は田園都市が経済的に実行でき,財政的に健全であり,社会上望ましいものであることを主張した。自由企業を支持し,民間セクターにより田園都市を建設しようとした彼は,社会主義者というより自由主義者であった。彼の提案した田園都市は総面積2400ha,総人口3万2000人の円形都市で,約400haの中心市街地に3万人,周囲の約2000haの農業地域に2000人を定着させている。
この田園都市の道路網は中央公園を中心として6本の放射状道路と5本の環状道路から構成されており,これらの道路に囲まれて市街地が形成されている。中央の環状道路は大散歩道として,また縁辺部は工場地区として計画され,これらの外側は農耕地,果樹園,牧場用地,貸農園として確保されている。ハワードの計画は最終的には,これらの田園都市が六つと,これらに取り囲まれ,それぞれから約6.5km離れたところにある人口5万8000人,面積4800haの中心都市から構成される社会都市群を提案している。この社会都市群は総人口25万人,総面積2万6400haの地方中核都市としての機能を具備した,当時としてはきわめて斬新な案であった。
彼の提案は多くの人々に空想的な夢物語として受けとられたが,少数の支持者の献身的な努力により,1903年第一田園都市会社First Garden City Ltd.が設立され,ロンドン北郊に最初の田園都市レッチワースLetchworthが建設された。面積1520ha,計画人口3万人の都市が老練な建築家アンウィンRaymond Unwin(1863-1940)により設計された。鉄道停車場を中心にショッピング・センターがあり,その周辺に住宅地区が所在し,工場は鉄道線路沿いに位置している。また市街地の周囲をグリーンベルトで取り囲んでいる。第2の田園都市ウェルウィンWelwynは同じくハワードおよび彼の同志によりロンドンの北部に1919年に着手された。計画人口は4万~5万人,面積は1850haで,1~2戸建ての庭付住宅がゆるやかにカーブした街路に沿って並んでいる。計画はソアッソンLouis de Soissonによって立てられた。古い農家や美しい樹木が注意ぶかく保存され,都市景観の向上に多大の努力が払われた。
ハワードの田園都市構想はイギリスのみならず世界各国で多くの関心を集め,田園都市と名づけられた都市開発が各地で行われた。しかし,これらの大部分は大都市の一部としての田園郊外開発かベッドタウン的なもので,ハワードの提唱する田園都市型のものはきわめて少ない。日本でも渋沢栄一らが中心となって大正末期,田園都市株式会社が設立され,田園郊外開発型の1~2戸建高級住宅街が田園調布に建設され,また阪神地方でも同種の住宅地区が出現した。第2次大戦後,大都市郊外の鉄道沿線で,駅を中心に公共セクターや民間セクターにより大規模な宅地開発が盛んに行われたが,戦後の高地価,宅地難のため過小宅地が多く,田園調布のような高水準に達していない状況にある。日本での田園都市構想としては大平正芳内閣時代,同首相の委嘱により政策研究会が1980年にまとめた提案が注目される。ここでのねらいは人口10万~30万人程度の地方中核都市を中心に,周辺の都市,農村を結合して形成される地域社会を田園都市圏と定義づけ,全国で200~300に達するこれら田園都市圏のネットワークを形成することにより,全国土の均衡ある発展を目ざしている。この田園都市圏では,その内部にある都市域と田園域の中間帯に規模100ha程度の田園都市林を3~4ヵ所設けることや,従来の行政区画や経済活動圏,通勤・通学圏に必ずしもとらわれない,住民が多様な文化活動を展開できる文化活動圏の設定を提案している。
→都市計画 →ニュータウン
執筆者:佐々波 秀彦
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
イギリスのエベネザー・ハワードEbenezer Howard(1850―1928)により1898年に提唱された都市で、田園の中に独立した新しい理想的都市。産業革命を最初に経験したイギリスでは、大都市の弊害が説かれ、工業の分散、都市の分散を図り、健全な都市発達のために、田園都市運動がおこった。ハワードは『明日の田園都市』を出版し、田園に囲まれた人口3万くらいの美しい町を、大都市周辺につくることを説いた。その都市では、土地は公有か、さもなくば信託所有であり、同時に社会単位で住民に快適な環境を提供する。そこは従来の都市と田園の長所を備え、自然の美と社会的な機会がともにあり、公園に近く、低い家賃と物価、高賃金などの特色をもつとしている。この運動により1903年、第一田園都市会社が設立され、ロンドンの北西56キロメートルのレッチワースに第一の田園都市が実現した。ついで1920年に第二の田園都市ウェリン・ガーデン・シティ(ウェルウイン)がロンドン北郊32キロメートルにつくられた。この田園都市運動は、各国の都市計画に大きな影響を与え、衛星都市や都市分散論の先駆けとなった。ロンドン周辺では第二次世界大戦後、新都市(ニュータウン)建設の出発点となり、32都市が政府設立の公社によって建設された。日本ではハワードのいうような完全な意味の田園都市はまだないが、電鉄会社などが沿線の住宅地を開発して、田園都市と称することがあり、東京都大田区の田園調布や、川崎市と横浜市にわたる多摩田園都市などはその例である。農村地区を広くもつ都市や町が自然との共生を唱えて「田園都市」を目ざすというのは、ハワードの提唱した田園都市の建設とは異なる。
[山鹿誠次・菅野峰明]
『E・ハワード著、長素連訳『明日の田園都市』(1968・鹿島出版会)』▽『山口広編『郊外住宅地の系譜――東京の田園ユートピア』(1987・鹿島出版会)』▽『坂西哲著『東急・五島慶太の経営戦略――鉄道経営・土地経営』(2001・文芸社)』▽『東秀紀ほか著『「明日の田園都市」への誘い――ハワードの構想に発したその歴史と未来』(2001・彰国社)』
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…多摩川に臨み,神奈川県に対する。1889年成立の調布村の一部であったが,大正時代に導入された田園都市運動の一環として,渋沢栄一が1918年に田園都市株式会社を設立,住宅地を造成した際に田園の2字を冠して田園調布とした。現在の東急東横線・目蒲線田園調布駅西口の駅前広場を中心に放射路,環状路を設置し,一区画100~500坪(330~1650m2)の上・下水道完備の高級住宅地として売り出された。…
…イギリスの社会改良家E.ハワードは1898年に発表した《明日――社会改革への平和的進路》(1903年《明日の田園都市》と改題)のなかで,産業革命以降の都市労働者の悲惨な労働・居住環境を改善するため,都市および農村の魅力を併せもち,均衡のとれた社会の形成を目指す田園都市構想を提案して非常な注目を浴びた。ハワードの田園都市提案は次の三大特色をもっている。…
…住宅建築ではW.モリスの友人P.ウェッグ,A.H.マクマード,R.N.ショー,C.F.A.ボイジー,E.ラティエンスが特に田舎家(カントリー・ハウス)あるいは別荘に新しい傾向を見せている(アーツ・アンド・クラフツ・ムーブメント)。また緑地に囲まれた独立的な都市の建設を提唱したE.ハワードの〈田園都市garden city〉構想は,理想主義的色彩が強いが,各国の都市計画に大きな影響を及ぼした。またグラスゴー美術学校(1897‐99)の設計で知られるC.R.マッキントッシュは,イギリスのアール・ヌーボーを代表する建築家,工芸家であるが,彼の機能主義的な一面は,ドイツ,オーストリアの建築家(ロース,ベーレンスら)にも影響を与えた。…
…住宅建築ではW.モリスの友人P.ウェッグ,A.H.マクマード,R.N.ショー,C.F.A.ボイジー,E.ラティエンスが特に田舎家(カントリー・ハウス)あるいは別荘に新しい傾向を見せている(アーツ・アンド・クラフツ・ムーブメント)。また緑地に囲まれた独立的な都市の建設を提唱したE.ハワードの〈田園都市garden city〉構想は,理想主義的色彩が強いが,各国の都市計画に大きな影響を及ぼした。またグラスゴー美術学校(1897‐99)の設計で知られるC.R.マッキントッシュは,イギリスのアール・ヌーボーを代表する建築家,工芸家であるが,彼の機能主義的な一面は,ドイツ,オーストリアの建築家(ロース,ベーレンスら)にも影響を与えた。…
…このため,行政上は別の組織体であるにせよ,あくまでも拡大された母市の一部とする研究者も少なくない。衛星都市という名称は,大都市から周辺に工場を移転させ,あわせて人口分散を図れと説いたG.R.テーラーによって,1915年に初めて用いられたものであるが,衛星都市の構想そのものは,1898年にE.ハワードが提唱した田園都市運動に由来していて,1903年にロンドン郊外に建設されたレッチワースや,これに続くウェルウィン(1919建設)はその代表的な例である。第2次大戦後はニュータウン計画となって受け継がれ,クローリーやハーローなどをつくった大ロンドン計画,パリ計画におけるパルリ・ドゥParly IIの建設などとなってあらわれている。…
…アメリカでは寝台車製造工場主G.M.プルマンが建設したプルマンPullmanの町(1880),ドイツでも製鉄会社クルップによるクルップ・コロニーKruppkolonie(1905)などの例が見られた。E.ハワードの主張した〈田園都市〉は町づくりのために工場も設置するという発想で計画されたもので,レッチワース(1903)とウェルウィン(1919)に結実した。そこに見られる住宅は中世風の意匠をもつものが多かった。…
…エッセンの製鉄工場が開発したいくつかのクルップ・コロニー(1865‐ ),キャドバリーGeorge Cadbury(1839‐1922)のボーンビルBournville(1895),リーバWilliam Hesketh Lever(1851‐1925)のポート・サンライトPort Sunlight(1887)などは有名である。E.ハワードは1898年《明日の田園都市》を出版して田園都市garden cityの理想を説いた。この提案は,都市と農村の結合,土地の公有,人口規模の制限,開発利益の社会還元,自給自足,住民の自由と協力など,多くの特色をもつものであった。…
…田園都市理論を提唱・実践したイギリスの都市計画家。ロンドン生れ。…
…その後,箕面有馬電気軌道(1907設立。現,阪急電鉄)の大阪府池田での土地開発分譲,住宅供給をはじめとして,明治末期から大正時代にかけて,田園都市(1918設立。東急不動産の前身),箱根土地(1920設立。…
※「田園都市」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新
10/1 共同通信ニュース用語解説を追加
9/20 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新