改訂新版 世界大百科事典 「シティ」の意味・わかりやすい解説
シティ
The City
シティ・オブ・ロンドンThe City of Londonの略。古代ローマ人の植民地として建設されたロンドンの市壁内で,ほぼ1マイル(約1.6km)四方の旧市街。17世紀のアムステルダムに代わって少なくとも第1次大戦期までは,世界の金融,保険,海運情報などの中心として,世界経済を牛耳る立場にあった。第1次大戦を境に,ニューヨークのウォール街にその地位を譲ったものの,いまもなお,世界の金融・信用市場に占める位置は小さくない。
政治の中心であるシティ・オブ・ウェストミンスターに対して,経済の中心として発展したこの地は,伝統的には25の区wardに分かたれ,各区から出る区長(参事)25名によって構成される参事会Court of Aldermen,159名の議員Councilmenからなる市議会によって支配された。マグナ・カルタにも特記されているその特権のゆえに,国王軍も市長Mayorの許可なしには市内に入りえないなど,中世にはほとんど独立的といってもよいほどの権力をもった。ギルド,とくに12の大ギルドの力が強く,絶対王政を支える柱の役割を果たしたが,その絶対王政を崩壊させたピューリタン革命の主導勢力の一つとなったのもまたシティであった。
1666年のロンドン大火でシティはその大部分が被災したが急速に復興,イギリスがオランダとの戦争に勝って世界商業の実権を握っていくにつれて,貿易の決済,金融のセンターとなっていく。とくに94年に国債発行を主要な業務としてイングランド銀行が設立され,東インド会社,のちの南海会社とともに国債の大量発行を引き受けるようになると,いっそうその傾向が強まる。産業革命期以後イギリスが〈世界の工場〉となるにつれて,シティでは貿易金融を担ったマーチャント・バンカー(マーチャント・バンク)の活躍が目だつようになる。ロスチャイルド家やベアリング家はその典型である。1816年に金本位制が施行され,44年,ピール銀行法によってイングランド銀行がいわゆる中央銀行の地位を得ると,シティの地位も揺るぎないものとなった。帝国主義段階に入ってイギリスが大規模な資本輸出を展開するようになると,マーチャント・バンカーの役割はいっそう重要度を増し,彼らが世界経済のみならず,世界の政治をも左右するに至る。
商品,資金,情報等の取引の中心であったシティには,そのための特有の施設が多数つくられた。中世以来の各種商品取引所--家畜のスミスフィールド,水産物のビリングズゲート,毛織物のブラックウェル・ホールなど--のほか,1568年にはトマス・グレシャムによって王立取引所Royal Exchangeが設立され,また17世紀末から18世紀にかけては,コーヒー・ハウスが群生して商品取引や情報交換の場としての役割を果たした。1773年には〈スレッドニードル街の老婦人Old Lady of Threadneedle Street〉とあだ名されたイングランド銀行に接してロンドン株式取引所が設立され,同じころ海運取引を主とするバルト海取引所も設立された。これらの施設をはじめ,約240行といわれる世界各国の銀行が林立するなかで,シティは今日も機能しつづけている。
→ロンドン
執筆者:川北 稔
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報