番田村(読み)ばんでんむら

日本歴史地名大系 「番田村」の解説

番田村
ばんでんむら

[現在地名]芦原町番田・東温泉ひがしおんせん

金津かなづ宿(現金津町)西方で、竹田たけだ北方の自然堤防上に位置する。村名は慶長三年(一五九八)検地帳の末尾部分を江戸中期に書写したと思われる古検帳寄写(土屋家文書)正保郷帳に「番田村」と記されるが、当村より竹田川を隔てた対岸には、かつて河口かわぐち本庄ほんじよう郷に属したと思われる上番かんばん中番なかばん下番しもばんの三ヵ村がある。また坪江つぼえしも郷も当村周辺にあり、室町中期以前の記録と思われる「坪江下郷三国湊年貢夫役等事」(大乗院文書)によれば、坪江庄下郷にはまき(現芦原町・三国町)阿古江あこえ西谷にしたに石丸いしまる覚善かくぜん(現三国町)などにそれぞれ番頭がおり、「番田請料」「番田作料」といった記載もあり、村名の起源は、番頭に率いられた荘民の夫役によって耕された「番田」に求められる。


番田村
ばんでむら

[現在地名]鶴岡市番田・稲生いなおい一―二丁目

鶴ヶ岡城下の南西、城下から湯田川ゆたがわ温泉に至る小国おぐに(田川)街道の道筋にあたり、北は八日町ようかまち村、南西は井岡いのおか村。東を青竜寺川が北流する。番手とも書き、近年「ばんでん」ともいう。慶長二〇年(一六一五)の年貢皆済状写(中台直矢文書)に村名がみえ、前年の年貢のうち一二九石余を納め未進者分は八石余とある。元和五年(一六一九)には凶作のため一〇石余を納めることができず、翌六年には最上氏から未納分に対し「身売三人」を出すよう命じられている(「年貢皆済状」荘内古録)


番田村
ばんだむら

[現在地名]高槻市番田一―二丁目・大塚おおつか町二丁目・西大樋にしおおひ町・南大樋みなみおおひ

大塚村の南西にあり、あくた川最下流域左岸に位置する。慶長一〇年(一六〇五)の摂津国絵図では大塚村に含まれ、正保三年(一六四六)大塚村から分村した(元禄元年「高槻御領分指出し写」中村家文書)。享保二〇年(一七三五)摂河泉石高調では高五九石余、領主変遷は高槻村に同じ。元禄期(一六八八―一七〇四)の状況と推定される本光院様御代御領分惣名寄では家数一三・人数六一(高槻町誌)

水利の便悪く、水害の多発した地域であった。承応二年(一六五三)完成した芥川の伏越大樋は大塚村領だが番田大樋と名が付けられており、元禄六年に北部山麓の上田辺かみたなべ真上まかみ・芥川・天神てんじん山一帯などの悪水を流下させるために開削された芥川左岸沿いの新川にも番田水路の名が付けられている(森田家文書ほか)


番田村
ばんだむら

[現在地名]玉野市番田

東は瀬戸内海に面し、北は相引おおびき川を境に小串こぐし(現岡山市)に接する。中世には備前国内における要港で、文安二年(一四四五)の「兵庫北関入船納帳」によると、米・海老・海月百合・胡麻・紙などを積んだ番田からの船が兵庫北関へ入津している。寛永備前国絵図では村高三二九石余、享保六年(一七二一)の田畠三一町六反余(うち塩浜三町四反余)、家数一二三・人数八三一、船一〇(備陽記)。文化年間の「岡山藩領手鑑」によると高三二九石余、直高三二六石余で蔵入、田八町二反余・畑二一町一反余・塩浜二町二反余、樋二七・井戸五〇、石橋二、家数二〇七・人数一千五七、牛五八、船一一、駕籠家八軒・鍛冶屋七軒・桶屋二軒がある。


番田村
ばんだむら

[現在地名]松任市番田町

水島みずしま村の東に位置。天文五年(一五三六)一月二五日、摂津石山本願寺に対し別心をいだいたことに対する詫言上のため上山した門徒のなかに「番田九郎兵衛」がいた(天文日記)。また戦国期のものとみられる加賀国御領中京家領注文(本願寺文書)に「番田」がみえる。慶長三年(一五九八)九月八日の前田利家印判状(高徳公御印書写)によると、番田村・安田やすだ(上安田村)の二村が利家に返付され、利家は「堺目事候間、諸役有間敷候」と二村の諸役を免除している。「堺目」とは二村が能美のみ郡との境近くに位置していることをいうが、この頃郡境が不明確であったのかもしれない。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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