伊達氏(読み)だてうじ

改訂新版 世界大百科事典 「伊達氏」の意味・わかりやすい解説

伊達氏 (だてうじ)

鎌倉~江戸期の武家。藤原姓。中納言山蔭6代目の子孫実宗が常陸国伊佐荘中村に住して伊佐または中村と称し,始祖朝宗はその玄孫と伝える。1189年(文治5)の奥州合戦で源頼朝に従軍した中村常陸入道念西(伊達朝宗)の子息らは,陸奥国伊達郡石那坂の合戦で平泉藤原方の信夫(しのぶ)荘司佐藤一族らを破った。戦後念西は功により伊達郡を与えられ,次男以下を従えて常陸から移り伊達氏を称した(長男為宗は常陸の本領に住し伊佐氏を称した)。建武・南北朝期には行朝が奥州式評定衆に列し,南党として畿内,関東,奥羽各地に転戦した。15世紀初め大膳大夫政宗の世までに信夫,刈田(かつた),伊具,亘理(わたり),柴田,名取,宮城などの諸郡と出羽国置賜(おきたま)郡に勢力を伸ばし,室町幕府と結んで鎌倉公方に敵対した。鎌倉期以来,その居城は伊達郡の桑折(こおり)・梁川地区を移動したが,持宗が梁川城を整備して以来,約1世紀間梁川におかれた。京都相国寺の瑞渓周鳳は《臥雲日件録》のなかで,伊達が奥州最大の武家で領中には寺庵が300余あり,その随一である東生寺(東昌寺)の衆は200人に及ぶと記している。持宗を継いだ成宗の2度目の上洛日記(1483)によれば,前将軍足利義政以下への進物は太刀23,馬95,砂金380両,銭5万7000疋にのぼっている。1522年(大永2)ころ稙宗(たねむね)は前例のない陸奥国守護となり,その子晴宗ものちに奥州探題に任命されて,南北朝期以来の大崎氏にかわって奥州探題家の地位を確定した。16世紀前期稙宗の世の伊達領国は,段銭古帳などによれば現山形,福島,宮城3県にわたる8郡余に及び,16世紀末期の〈独眼竜〉政宗の世には,浜通りを除く福島県,山形県置賜郡,宮城県および岩手県南部を勢力圏に編入した。これよりさき32年(天文1)稙宗は居城を梁川から桑折西山に移し,また48年ころ晴宗は米沢に居城を定めた。政宗の90年(天正18)に会津,岩瀬,安積諸郡を豊臣秀吉から没収され,さらに91年田村,安達(あだち),信夫,伊達,置賜,刈田の諸郡を没収され,かわって大崎・葛西(かさい)両氏の旧領諸郡を与えられて米沢から玉造岩出山に移った。

 関ヶ原の戦後,刈田郡を与えられ伊達60万石がほぼ決定した。1601年(慶長6)岩出山から仙台に居城を移して,仙台藩主としての伊達氏の姿が定まり,その後,伊達騒動(寛文事件)の危機を乗り切って幕末に至ったが,戊辰戦争には奥羽越列藩同盟盟主として会津藩を擁護したため28万石に減封された。国主。維新後,伯爵。なお1614年には,政宗の庶長子秀宗が宇和島伊達家(宇和島藩10万石)を開いている。准国主。維新後,伯爵のち侯爵。さらに秀宗の五男宗純は57年(明暦3)吉田3万石を分かたれた。維新後,子爵。

 中世には持宗以後輝宗までの歴代が足利将軍の一字を拝領した。独眼竜政宗は中興の主大膳大夫政宗の名を襲ったが,その子忠宗以後慶邦まで近世の歴代は,早世した周宗を除き,いずれも徳川将軍の一字を拝領し,少将または中将に進み陸奥守を兼ねた。また,政宗の世に松平姓を許された。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「伊達氏」の意味・わかりやすい解説

伊達氏
だてうじ

鎌倉時代~江戸末期の武家。藤原姓、中納言(ちゅうなごん)山蔭(やまかげ)の子孫と伝える。初め常陸国(ひたちのくに)伊佐庄(いさのしょう)中村(茨城県筑西(ちくせい)市)に住し伊佐または中村を称したが、朝宗(ともむね)の世に源頼朝(みなもとのよりとも)の奥州征討従軍の功により陸奥国(むつのくに)伊達郡(福島県)を賜り、移住して伊達氏を称した。建武新政(けんむのしんせい)に際し行朝(ゆきとも)は奥州式評定衆(ひょうじょうしゅう)となり、15世紀初頭の政宗(まさむね)(大膳大夫(だいぜんだいぶ))のころまでに信夫(しのぶ)、刈田(かった)、伊具(いぐ)、亘理(わたり)、柴田(しばた)、名取(なとり)、宮城および出羽国(でわのくに)置賜(おきたま)(長井庄)などの諸郡に勢力を伸ばし、室町幕府と結び関東公方(くぼう)に敵対した。稙宗(たねむね)は陸奥守護に任じて分国法(ぶんこくほう)「塵芥集(じんかいしゅう)」を制定し、その子晴宗も奥州探題となった。晴宗の孫政宗の世に仙道(せんどう)諸郡と会津を略取したが、豊臣秀吉(とよとみひでよし)に服属し没収された。晴宗の世に本拠を伊達郡から米沢(よねざわ)に移し、政宗の世に玉造(たまつくり)郡岩出山(いわでやま)(宮城県大崎(おおさき)市)、さらに仙台に移り、62万石を領して幕末に至る。戊辰戦争(ぼしんせんそう)には奥羽越列藩同盟の主となり、会津藩を擁護したため28万石に減封された。宇和島伊達氏(10万石)は政宗の庶長子秀宗を祖とする。

[小林清治]


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百科事典マイペディア 「伊達氏」の意味・わかりやすい解説

伊達氏【だてうじ】

藤原北家流。常陸(ひたち)の伊佐(中村)朝宗が源頼朝の奥州合戦に従い,陸奥(むつ)伊達郡を与えられ伊達氏を称した。以後奥州の有力豪族。戦国時代稙宗(たねむね)のとき戦国大名に成長,塵芥(じんかい)集を制定。政宗のとき東北一の大名となったが,豊臣秀吉に降伏,領国を削られ移封。関ヶ原の戦で徳川方につき仙台藩主として60万石を領した。なお政宗の子秀宗から伊予(いよ)宇和島と伊予吉田の2藩が分かれた。→伊達政宗伊達騒動
→関連項目一関[市]鷹場留守氏

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「伊達氏」の解説

伊達氏
だてし

中世以来の武家で,近世大名家。常陸国伊佐(いさ)荘中村(現,茨城県筑西市)の常陸入道念西(伊佐朝宗(ともむね))が,1189年(文治5)奥州合戦の戦功により陸奥国伊達郡(現,福島県)を与えられて入部し,伊達氏を称した。南北朝期には南朝方につき,室町時代には幕府方と結び鎌倉公方と対抗。1522年(大永2)稙宗(たねむね)の代にはじめて陸奥国守護となる。晴宗の代に出羽国米沢に本拠を移す。政宗は89年(天正17)蘆名氏を滅ぼし会津黒川(現,福島県会津若松市)に入った。翌年小田原に参陣するが,会津などを没収される。91年玉造郡岩出山(現,宮城県大崎市岩出山),1603年(慶長8)仙台に入る。62万石を領した。明治維新後,宗基のとき伯爵。政宗の子秀宗は伊予国宇和島藩10万石を領知。宗徳のとき伯爵,のち侯爵。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「伊達氏」の意味・わかりやすい解説

伊達氏
だてうじ

江戸時代の仙台藩主,宇和島藩主,吉田藩主。中納言藤原山蔭の子孫と伝えられる。鎌倉時代初期に常陸国伊佐郡の領主伊佐朝宗が源頼朝に属して戦功をあげ,陸奥国伊達郡を与えられてから伊達と称した。南北朝時代,行宗 (行朝) が南朝方として長期間常陸国で活躍。 16世紀末に政宗が出て近隣の諸豪族と戦って勝ち,陸奥国の南半分を制圧する大勢力となり,慶長8 (1603) 年仙台に城を構えて 62万石の大名となった。子孫は相次いで襲封し明治維新にいたり,伯爵。なお伊予国宇和島藩主は政宗の庶長子秀宗に始り,同国吉田藩主は秀宗の5男宗純に始った。

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旺文社日本史事典 三訂版 「伊達氏」の解説

伊達氏
だてし

戦国〜江戸時代の陸奥の大名
藤原北家の一流。陸奥国仙台藩主。祖先が源頼朝の奥州征討に従い功により陸奥国伊達郡(福島県)を与えられ,伊達氏を称した。その後南朝に属し,のち足利氏に降伏。米沢を居城とし,政宗のときに会津を平定,仙道7郡を治めた。豊臣秀吉に対抗しようとしたが,小田原陣中に至り服属。関ケ原の戦い(1600)に東軍に属し上杉景勝を破り,徳川氏より優遇をうけ仙台62万石を領した。庶子秀宗は伊予宇和島の藩主となる。戊辰 (ぼしん) 戦争では奥羽越列藩同盟の中心となり,のち28万石に減封された。

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世界大百科事典(旧版)内の伊達氏の言及

【宇和島藩】より

…豊臣秀吉の四国征伐後,宇和郡は1587年(天正15)戸田勝隆,95年(文禄4)藤堂高虎が領主となり,高虎は板島丸串城を本城として築城した。1608年(慶長13)富田信高が領主となり,15年(元和1)伊達政宗の庶長子秀宗が宇和郡10万石の領主として入部し,以後廃藩まで伊達氏9代の治世が続いた。秀宗は18‐35年(元和4‐寛永12),父政宗の隠居料として3万石を割き,この間宇和島藩は7万石であった。…

【仙台藩】より

…陸奥国(宮城県)仙台に藩庁を置いた外様大藩。藩主は伊達氏で藩祖伊達政宗以下14代。1591年(天正19)政宗が出羽国米沢から玉造郡岩出山に移されたのが初めで,1600年(慶長5)仙台に築城した。…

【大名】より

…宗氏は1万石余であるが対馬1国を領有するし,朝鮮との外交関係があったので10万石格の国主の扱いを受けた。 これに准ずる大名,領地高の多い大名は,伊達氏(陸奥仙台62万石余),細川氏(肥後熊本54万石),鍋島氏(肥前佐賀35万石余),藤堂氏(伊勢安濃津32万石余),松平氏(越前福井32万石),有馬氏(筑後久留米21万石),佐竹氏(出羽秋田20万石余),松平氏(出雲松江18万石余),柳沢氏(大和郡山15万石余),上杉氏(出羽米沢15万石)の10家で,合計20家の国主大名が存在した。 ただし1ヵ国を領有する酒井氏(若狭12万石余で小浜に住する),松浦氏(壱岐等6万石余,肥前平戸),稲垣氏(志摩等3万石,鳥羽)の3家は,領地高が多くないので国主としない。…

【出羽国】より

…この内乱期から室町幕府支配の下で,郷村を名字とする数多くの土豪層,国人層が台頭し,守護大名的領主も出現する。庄内の大宝寺氏,仙北の小野寺氏,米沢・伊達の伊達氏,秋田・津軽の安東氏は,京都扶持衆にもなった。十刹諸山に指定された光明寺,勝因寺,崇禅寺,金剛寺,資福寺は彼らの勢力範囲に照応する。…

【陸奥国】より


[戦国時代]
 戦国時代の陸奥国は,数郡にわたる支配領域をもつ伊達,蘆名,葛西,大崎,南部らの大名と,その周縁部に位置する郡規模あるいはそれ以下の国人によって構成されており,国人層の帰趨をめぐって複雑な抗争がくりひろげられていた。南奥では,戦乱は伊達氏を中心に展開する。伊達氏は16世紀前半に尚宗(ひさむね)対稙宗(たねむね),稙宗対晴宗の当主父子の対立を軸とする深刻な内争を経験し(後者を天文の乱という),その中でみずからを戦国大名に鍛え上げていった。…

【米沢[市]】より

米沢盆地の南部に位置し,中心市街地の米沢は松川扇状地上に発達した旧城下町で,奥羽本線,山形新幹線と国道13号線が福島県に通じ米坂線が分岐する県南置賜(おきたま)地方の中心都市である。中世に長井氏の築城によって開け,戦国期には伊達氏の領国の中心地として城下町の原型が形成された。1601年(慶長6)上杉景勝が会津から移封されて以後明治まで約270年間にわたる上杉氏の統治が続いた。…

【留守氏】より

…その所領は国衙周辺の広大な高用名(こういうみよう)の中にあった。室町時代以後,岩切城(高森城,鴻(こう)の館ともいい,現,仙台市岩切)を居城として国人領主化したが,早くから伊達氏の影響を受け,15世紀中ごろの伊達邦宗の入嗣をはじめとして,1500年(明応9)の景宗,67年(永禄10)の政景(宗朝)と,あいついで当主が伊達氏から入っている。近世には伊達氏の家臣となって一門の家格に列せられ,胆沢郡水沢(岩手県水沢市)で1万6000石を給せられ,幕末にいたった。…

※「伊達氏」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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