知内村(読み)しりうちむら

日本歴史地名大系 「知内村」の解説

知内村
しりうちむら

[現在地名]上磯かみいそ郡知内町字元町もとまち・字上雷じようらい・字湯ノ里ゆのさと・字重内おもない・字森越もりこし・字中ノ川なかのかわ・字涌元わきもと

近世から明治三九年(一九〇六)までの村。北は木古内きこない(現木古内町)、南は小谷石こたにいし村。西はななッ岳(九五六・八メートル)袴腰はかまごし(六九九・一メートル)岩部いわべ(七九四・二メートル)、南はまる(六六五・四メートル)灯明とうみよう(五七七・四メートル)が連なる山岳地帯。東は津軽海峡に臨む。ほぼ中央を知内川が流れ、流域集落を形成している。「地名考并里程記」は知内と表記して、「夷語シリヲチなり。地を越すと訳す。扨、シリとは地と申事。ヲチとは越すと申事にて、此沢辺より所々江踰越する故此名あるべし」と記す。「新羅之記録」によると、天文一九年(一五五〇)に夷狄之商舶往還之法度が決められてアイヌ和人和睦、「志利内」のチコモタインを東夷の尹(長官)とし、アイヌの交易船は「志利内之沖」で帆を下げて一礼して通過することなどが定められている。

〔近世〕

シャクシャインの戦に関連して「津軽一統志」の「松前より下狄地所付」に「しりうち」とみえ、「川あり 是迄三里 家三十軒」と記される。「狄蜂起集書」には「尻内」として「家三十間斗 是より狄居 出湯有り」とある。元禄郷帳の「従松前東在郷并蝦夷地之覚」に「しりうち村」、享保十二年所附では福島ふくしま(現福島町)と「尻内村」の間に「湯の坂 湯の尻 ちらちら 萩ちや里(中略) 浅堀(中略) 上いか土 下いか土」などが記されている。天保郷帳には「従松前東在」として「知内村」が載り、枝村に脇本わきもと村がある。寛政一一年(一七九九)まで松前藩領、同年知内川以東が幕府直轄地となった。文政四年(一八二一)再び松前藩領。近世初期は松前安広の給所。安広は初代松前藩主慶広の七男で、現荒神社に祀られている由広の弟。元和九年(一六二三)仙台藩に禄仕するまでの間、藩主の直領であった当村の知行主とされていた。仙台藩禄仕後も当村の采領を認められ、本税以外の小物成役は安広に納め、安広が必要とする仲間・小者は期限を定めて当村から奉公させることが定められていた(知内町史)


知内村
ちないむら

[現在地名]マキノ町知内

百瀬ももせ川の下流にあり、西はさわ村。湖辺に枝郷浜知内はまちないがある。享徳(一四五二―五五)頃と思われる旦那在所注文(熊野那智大社文書)に「ちない」とあり、元亀―天正(一五七〇―九二)頃の海津浜在所書立写(同文書)の「西はま十一村」のうちに「ちない」とみえる。慶長五年(一六〇〇)佐久間安政(元和二年以降信濃飯山藩)領、寛永一五年(一六三八)幕府領、慶安四年(一六五一)徳川綱重(寛文元年以降甲斐甲府藩)領となる。宝永二年(一七〇五)幕府領となり、享保九年(一七二四)以降大和郡山藩領。寛永石高帳に高九一二石余とあり、慶安高辻帳では田方五二五石余・畑方二八石余・永荒三五八石余、ほかに小物成米一二石一斗。寛永一六年の免三ツ五分、寛文四年(一六六四)は二ツ七分四厘で、一〇分一は大豆納、三分一は銀納、このほか小物成が銀七三八匁余であった(高島郡誌)


知内村
しりうちむら

明治三九年(一九〇六)から昭和四二年(一九六七)までの村。明治三九年知内村と小谷石こたにいし村が合併して二級町村上磯郡知内村が成立。旧村名を継承した二大字を編成。同年の戸口は五二九戸・三千一一一人。明治一四年設立の山田農場は経営していた鉱山の爆発、燐寸工場の火災などにより経営不振に陥り、同三九年大阪の田中市太郎に譲渡され、同四三年岩内いわない(現岩内町)の長浜彦次郎に売却された。しかし経営が思わしくなく、二年余で武井たけい農場に変わった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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