石峯寺
しやくぶじ
[現在地名]北区淡河町神影
かつての播磨国の東端、京・大坂から播磨以西に延びる有馬街道近くの山中に位置する。高野山真言宗、岩嶺山と号する。本尊は延命地蔵。塔頭は十輪院・極楽寺・竹林寺。寺伝によると白雉二年(六五一)法道が開基し聖武天皇の代に行基が巡錫して薬師堂を建立。嵯峨天皇が弘仁一四年(八二三)三重塔を造立、勅願寺としたと伝える(貞享三年書写「微考録」石峯寺文書。以下断らない限り同文書)。金堂・薬師堂・三重塔・阿弥陀堂等があり(微考録)、伽藍配置から創建は一一世紀頃、最初は天台寺院であったと考えられる。鎌倉時代末期と嘉吉の乱の際と二度の火災にあった(石峯寺薬師堂修理工事報告書)。
承久四年(一二二二)淡河庄預所は当寺に対して庄家の使者が乱入するのを禁止し(二月日「領家下文」微考録)、建長元年(一二四九)本尊地蔵菩薩に寄進された田の万雑役が免ぜられている(六月日「預所兼地頭代平某奉免状」微考録)。弘安四年(一二八一)二月二八日奈良西大寺叡尊が「岩峯寺」に至って翌日より十重戒を説き、三月四、五両日で合せて一千八八二人に菩薩戒を授け温泉寺に向かった。
石峯寺
しやくぶじ
[現在地名]北区淡河町神影
美嚢郡に属する。淡河川右岸の山間に位置し、西は北畑村。石峯寺門前の村。慶長国絵図に石峯寺とみえる。以降郷帳類には石峯寺と記され、寛永四年(一六二七)には田方二一石余・五町九反余、畑方七〇石・八町二反余(美嚢郡誌)。正保郷帳によると田方のみで高九〇石余、松山あり。元禄郷帳では高一六〇石余。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報
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