石川城跡(読み)いしかわじようあと

日本歴史地名大系 「石川城跡」の解説

石川城跡
いしかわじようあと

[現在地名]野田川町字石川

石川村の背後、標高一二〇メートル余にある山城。東西に郭を連ね、中間に西向きの落ち込んだ部分がある。

石川は丹後守護一色氏に関係が深く、「若狭国守護職次第」に次のようにある。

<資料は省略されています>

一色氏の守護国である若狭の代官父子が、京都一色屋形から丹後石河城に移されて入牢、二年半後に切腹を命ぜられた。これは小浜おばま(現福井県小浜市)八幡山で鹿狩をした祟りだと風聞を立てられたというのだが、一色氏の支配権のなかでの守護と代官の争いであることはいうまでもない。なお引用文中の信将は一色左京大夫詮範、「代官同人」とあるのは小笠原三河守長春(法名明鎮)、「又代官同人」は武田若狭守長盛(法名寿恩)であり、当時三河国は一色満範の守護国であった。

石川城跡
いしかわじようあと

平安時代の後期から鎌倉時代にかけて、河内石川源氏が本拠地とした石川郡壺井つぼいにあったとみられる居館。跡地は不明。治承四年(一一八〇)冬、石川源氏の源義基、その弟義資・義広や、子息の義兼らが源頼朝に気脈を通じたとして、平清盛が源季定・平盛澄ら約三千騎に襲撃させたときのことを「平家物語」巻六(飛脚到来)は「城内には武蔵権守入道義基、子息判官代義兼を先として、其勢百騎ばかりには過ざりけり、時つくり矢合して、いれかへいれかへ数剋たゝかふ、城内の兵共、手のきはたゝかひ打死するものおほかりけり」と記す。

石川城跡
いしかわじようあと

[現在地名]弘前市石川 大仏

弘前市の南東尾開おびらき山の北東麓大仏だいぶつにある。東側崖下をひら川が北流する。当城跡最高所にある三角点は標高九七・四メートル。

建武元年(一三三四)六月日の曾我光高軍忠注文(遠野南部文書)によれば、同年五月二一日に「石河合戦」があり、石川城に拠った幕府方は敗れ、朝廷方が勝利を得ている。この模様は同年と推定される六月一二日の北畠顕家教書(同文書)に「津軽事 石川楯無為責落候 目出候 持寄城静謐無御心元候 尤被打向彼城之条 雖可宜都内事 無左右又難被閣之間 未被仰候也 且可被随事躰歟 中条ニハ早可向之由被仰了」とあり、幕府方は石川での敗北後、持寄もちよせ(現中津軽郡相馬村)に立てこもったが、同年一一月に落城し、幕府方の要人安達高景・名越時如や彼らに味方した津軽の幕府勢力は一掃された。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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