日本歴史地名大系 「石川城跡」の解説
石川城跡
いしかわじようあと
石川村の背後、標高一二〇メートル余にある山城。東西に郭を連ね、中間に西向きの落ち込んだ部分がある。
石川は丹後守護一色氏に関係が深く、「若狭国守護職次第」に次のようにある。
一色氏の守護国である若狭の代官父子が、京都一色屋形から丹後石河城に移されて入牢、二年半後に切腹を命ぜられた。これは
石川城跡
いしかわじようあと
石川城跡
いしかわじようあと
弘前市の南東、
建武元年(一三三四)六月日の曾我光高軍忠注文(遠野南部文書)によれば、同年五月二一日に「石河合戦」があり、石川城に拠った幕府方は敗れ、朝廷方が勝利を得ている。この模様は同年と推定される六月一二日の北畠顕家教書(同文書)に「津軽事 石川楯無為責落候 目出候 持寄城静謐無御心元候 尤被打向彼城之条 雖可宜都内事 無左右又難被閣之間 未被仰候也 且可被随事躰歟 中条ニハ早可向之由被仰了」とあり、幕府方は石川での敗北後、
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報