一色氏 (いっしきうじ)
清和源氏。足利氏の支族。足利泰氏の子公深阿闍梨が三河国吉良荘一色(現,愛知県西尾市の旧一色町)を所領とし一色氏をおこす。公深の子一色範氏は1336年(延元1・建武3)足利尊氏の命により九州にとどまり,軍事指揮,行賞・訴訟の注進・実施などの権限を行使し,初代の鎮西管領(のち九州探題)となった。やがてその子直氏が代わって鎮西管領となり,範氏はこれを後見したが,九州諸豪族の抵抗が強く,父子は足利直冬党・南朝方と鼎立した末,南朝方菊池氏に敗れて56年(正平11・延文1)から翌々年にかけて父子あいついで九州を退去して帰京した。しかし直氏の弟範光は66年(正平21・貞治5)若狭守護となり,79年(天授5・康暦1)三河守護を兼ね,範光の子詮範は一色氏としてはじめて侍所頭人となった。詮範の子満範は足利義満の寵を受け,明徳の乱の軍功により丹後守護を兼ね,一色氏は三ヵ国守護として最盛期を迎えた。満範の子一色義貫(初名義範)は足利義持・義教に仕えて御相伴衆となり,侍所頭人・山城守護を再三兼ね,いわゆる四職家として幕政に参与した。ところが義貫は1430年(永享2)義教の不興を買い,これに反して弟持信が義教の寵臣となり,結局義貫は40年大和国民越智氏追討のため同国在陣中,義教の密命を受けた武田信栄によって謀殺された。そののち持信の子教親が足利義政によって丹後・伊勢両国守護に任ぜられ,義貫の子義直がこれを継いだが,戦国時代に一色氏の勢力はしだいに衰え,わずかに丹後宮津城主として存続した。さらに織田信長から丹後国を与えられた長岡(細川)忠興が1582年(天正10)一色義俊を謀殺し,続いてその叔父義清をたおし,ここに四職家の一色氏は滅亡した。他方満範の子持範の子孫一色藤長は,足利義昭,織田信長,豊臣秀吉に歴仕し,藤長の子範勝は幕臣となったが,範勝の曾孫範永が早世して,家が絶えた。ほかに庶流数家が幕臣となる。以心崇伝は藤長の甥である。
執筆者:小川 信
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
一色氏
いっしきうじ
足利(あしかが)一門の守護家。足利泰氏(やすうじ)の子公深(こうしん)が三河国吉良庄(きらのしょう)一色(愛知県西尾市一色町地区)を本領としたのに始まる。公深の子範氏(のりうじ)は足利尊氏(たかうじ)に従い、鎮西管領(ちんぜいかんれい)(九州探題)として活動した。範光(のりみつ)以来若狭(わかさ)、三河守護、詮範(あきのり)以来しばしば侍所頭人(さむらいどころとうにん)(所司(しょし))に任ぜられ、四職(ししき)の家柄として重んぜられた。満範(みつのり)は明徳(めいとく)の乱(1391)の戦功で丹後(たんご)守護を兼ねた。義貫(よしつら)は将軍足利義教(よしのり)に討伐されたが、甥(おい)教親(のりちか)は伊勢(いせ)、丹後守護となり、義貫の子義直がこれを継いだ。戦国時代に一色氏はしだいに衰退し、ついに丹後宮津城主義俊(よしとし)とその叔父義清(よしきよ)は織田信長の臣細川忠興(ほそかわただおき)に滅ぼされた。しかし、庶流の一色藤長(ふじなが)は足利義昭(よしあき)、織田信長、豊臣秀吉(とよとみひでよし)に仕え、さらにその子孫など数家が幕臣となった。
[小川 信]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
一色氏
いっしきし
室町時代の守護大名。清和源氏。足利氏の支族。足利泰氏の子公深(こうしん)が,三河国吉良荘一色(現,愛知県西尾市一色町)を本拠としたのに始まる。その子範氏は足利尊氏に従い,九州で活躍。範氏の子範光は若狭・三河両国守護,曾孫の満範は明徳の乱の功により,丹後国守護となった。四職家の一つとして重んじられたが,義貫(よしつら)が6代将軍義教に殺されて衰退。その子義直が応仁・文明の乱で西軍として活躍したが,江戸初期には断絶。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
一色氏
いっしきうじ
足利氏の一族。足利泰氏の子公深が三河吉良荘一色に居住して一色を称し,子孫は四職家 (→三管四職 ) の一つとして重用され,丹後,若狭などの守護として活躍したが,永享 12 (1440) 年一色義貫が将軍足利義教のために殺されてから勢力を失った。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
一色氏
いっしきし
室町時代の守護大名。四職 (ししき) 家の一つ
足利氏の一族。足利公深 (きみふか) が三河の吉良庄一色に住んで以来一色氏を称す。その子範氏 (のりうじ) は足利尊氏に従い九州地方で活躍。のち丹後・若狭両国の守護となる。四職家の一つとして中央政界で重きをなしたが,将軍足利義教 (よしのり) に圧迫され,室町中期以後勢力を失った。
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
世界大百科事典(旧版)内の一色氏の言及
【小浜[市]】より
…中世の小浜は,国衙税所(さいしよ)領今富名(いまとみみよう)([今富荘])に属し,この名は若狭守護が伝領して,ここを支配の拠点としたところから,一国の政治・文化の中心となり,重要港湾として経済的発達も著しかった。鎌倉期には,初期の津々見氏のあと北条氏嫡流(得宗)が守護職を相伝,南北朝期にはしばしば守護が交替したが,1366年(正平21∥貞治5)以後は,一色氏が4代にわたって守護となる。一色氏時代はあたかも室町幕府の盛時で,各地を巡遊して威を示した将軍義満は,93年(明徳4)以来丹後九世戸の文殊参詣のついでにしばしば小浜をも訪れている。…
【尾張国】より
…また海東郡も同じころ分割され,山名某,結城満藤を経て94年(応永1)には同人の管轄下に入っている。両郡分割支配は15世紀以降も続き,一色氏が両郡守護を兼ねた。1400年ころ,斯波義重が守護に着任,以後戦国期に至る150年間,尾張は足利一門守護斯波氏の領国支配下におかれる。…
【四職】より
…室町時代の武家の家格。[三管領]に次ぐ有力守護家のうち,[侍所]頭人(とうにん)を出した4家を指す。室町幕府の侍所は南北朝後期以降,主として山名,土岐,赤松,京極,畠山,一色の6家から交替で就任していたが,1398年(応永5)畠山氏が管領家に昇格した結果,残余の5家から頭人を出した。なお美濃守護土岐氏は1439年(永享11)以後侍所に補任された徴証がなく,また赤松氏も嘉吉の乱(1441)で没落したので,以後は京極,一色,山名の3家となり,実際に4家が恒常的に頭人を出した安定期間というのはなかった。…
【丹後国】より
…しかし当国の守護支配はなお安定せず,満範の孫義貫は将軍足利義教から疎まれ,1440年(永享12)大和の陣中で幕命により暗殺され,当国守護は伊勢守護家の一族一色教親に与えられた。しかし教親・義直父子の丹後支配も束の間で,応仁の乱になると義直が西軍にくみしたため守護職は剝奪され,当国は3分割されて若狭武田氏,幕府評定衆摂津之親,摂津欠郡守護細川持賢らに与えられ,ここに一色氏の守護支配は瓦解したのである。一色氏が再び当国守護に還補されるのは応仁の乱後,義直が幕府に帰参してからであった。…
【若狭国】より
…66年(正平21∥貞治5)守護となった一色範光の支配の初め,守護の圧力に抵抗する国人勢力はしばしば反乱して守護軍と戦ったが,71年(建徳2∥応安4)5月,宮河,鳥羽,木崎,和久里ら遠敷郡の国人を主力とする国一揆軍は,玉置河原で範光の子詮範の率いる守護代や守護方国人勢力(おもに大飯郡勢)と激戦の末大敗,鎌倉以来の国人の多くは討死し,所職を得替された。この合戦はいわば若狭における南北朝内乱の終結を意味するものであり,以後[一色氏]の支配が一国に進展する。詮範守護の時期には,将軍義満が丹後九世戸の文珠(智恩寺)参詣のついでにたびたび小浜を訪れたが,それは幕府盛時の将軍の示威であるとともに,若狭における一色氏の領国支配の安定をも示す事実であった。…
※「一色氏」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」