烏帽子形城跡(読み)えぼしがたじようあと

日本歴史地名大系 「烏帽子形城跡」の解説

烏帽子形城跡
えぼしがたじようあと

[現在地名]河内長野市喜多町

天見あまみ川と石川の合流点南側、標高一八二メートルの烏帽子形山にあった中世の山城。城山の東中腹に烏帽子形八幡神社がある。高野街道を扼する交通の要地に位置する。寿永三年(一一八四)正月、源行家は長野ながの城にあって源義仲に叛した(「平家物語」巻八「室山合戦事」)が、この長野城は当城ではないかとされる。ただし「源平盛衰記」(巻三四「京屋島朝拝無之付義仲将軍宣事」)には行家が拠ったのは石川城とみえる(羽曳野市の→石川城跡。元弘の乱から南北朝動乱の間、南河内では合戦が繰返され、当城は位置からみても重要視されたと思われるが、文献上の明徴を得ない。四条縄手の戦の後、東条を攻めた高師泰が石川に城を築き、貞和五年(一三四九)四月二六日には同城から長野庄への発向も行われている(同年八月一一日付「多田院御家人森本為時軍忠状」彰考館蔵集古文書)。次いで畠山国清が入り、観応擾乱のさい足利直義も一時拠ったことでも有名である。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

国指定史跡ガイド 「烏帽子形城跡」の解説

えぼしがたじょうあと【烏帽子形城跡】


大阪府河内長野市喜多町にある城跡。河内長野市街の南、石(いし)川とその支流天見(あまみ)川の合流点近くに位置し、南の標高約182mの烏帽子山に築かれている。北に石川を、東に天見川を見下ろし、東麓には紀伊北部と河内南部を結ぶ高野(こうや)街道が走る交通の要衝でもある。城の規模は、南北約140m、東西約160mで、山頂部に主郭(しゅかく)となる曲輪(くるわ)が位置し、これを土塁と空堀が2重に囲んでいる。1332年(元弘2・正慶1)、楠木正成(くすのきまさしげ)が上赤阪城(大阪府南河内郡千早赤阪村)の支城として築城し、南朝の楠木氏と北朝の畠山氏との争奪戦が行われたとつたえられる。応仁の乱の契機となった河内守護職畠山氏の分裂抗争において、1466年(文正1)に押子形城(おしこがたじょう)として初めて文献に登場する。応仁の乱後も分裂した畠山氏の抗争は続き、1524年(大永4)には再び合戦の舞台となり、その後、新興勢力の三好氏勢と畠山氏勢が合戦を繰り返す場となった。元亀年間(1570~73年)には甲斐庄正治が入り、城下でキリスト教を奨励し、南河内の拠点となった。その後、岸和田城主中村一氏の支城となり、1584年(天正12)に整備が行われたとみられるが、1617年(元和3)に廃城となった。現在は烏帽子形公園として整備され、1480年(文明12)創建の烏帽子形八幡神社がある。また、頂上から北に派生する稜線の中腹部に、直径20m、高さ約3mの円墳があり、横穴式石室が確認され、古墳時代後期のものと推定されている。中世から近世初頭にかけての畿内(きない)の歴史を理解するうえで貴重な遺跡として、古墳と神社もあわせて2012年(平成24)に国の史跡に指定された。南海電気鉄道高野線ほか河内長野駅から徒歩約15分。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報

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