石成村(読み)いしなりむら

日本歴史地名大系 「石成村」の解説

石成村
いしなりむら

[現在地名]平鹿町醍醐だいご

東は馬鞍まくら村、西と南は醍醐村に接し、羽州街道筋の村。

慶長二〇年(一六一五)の「まくらノ内、石成村物成諸役相定条々」(秋田県庁蔵)に村名がみえる。正保四年(一六四七)の出羽一国絵図に六一五石とあり、享保一五年(一七三〇)の「六郡郡邑記」には正保四年、馬鞍村より分れたとみえ、「其節に沢山と申山を被付置候。醍醐、馬鞍村へ入組罷有候」とある。馬鞍村から、石成村と醍醐村が分れたという伝えは、三村で祀る神社が馬鞍村枝郷三島みしま村の八幡宮であることからもうかがえる。

梅津政景日記」元和四年(一六一八)七月一八日条に、馬鞍の内石成村肝煎は五四石余を横領百姓分上納米三斗入の俵八八俵余も横領し、牢に入れられ、同六年閏一二月二七日条に「おん田百姓前取籠米」一一三石余のうち、一九石余を残して弁済し出牢したとある。


石成村
いしなりむら

[現在地名]朝倉町石成

筑後川支流荷原いないばる川中流の台地上に位置する。東から南は上大庭かみおおば村・下大庭村、西は下座げざ牛鶴うしづる村・中島田なかしまだ(現甘木市)。弘治三年(一五五七)と考えられる一二月一三日付大友義鎮書状(志賀文書/熊本県史料 中世篇二)によると、義鎮は志賀親度に「於豊筑百五拾町分」を宛行っており、この時の坪付とみられる年月日未詳志賀親度知行坪付(同上)には「一所 三拾町 石成」がみえる。小早川時代の指出前之帳では石成村の田五町九反余(分米八七石余)・畠二一町六反余(分大豆一〇二石余)。慶長七年(一六〇二)の検地高六一九石余、うち大豆四四六石余(慶長石高帳)


石成村
いしなりむら

[現在地名]多古町水戸みと

はやし村の南、多古橋たこばし川の右岸に位置する。南東は水戸村。寛文四年(一六六四)の松平乗久領知目録(寛文朱印留)に村名がみえ、佐倉藩領であった。同八年の鷹場五郷組合帳では高一三石、同藩領で、島組に属した。元禄一三年(一七〇〇)頃の下総国各村級分では高一三四石余、旗本神保・本間領。天保一四年(一八四三)の成井村他七ヶ村差出帳(成井区有文書)によれば、神保領は高九七石余、反別は田三町余・畑屋敷一町八反余。


石成村
いしなりむら

赤塚あかつか郷内にあった村。現在の成増なります付近に比定される。応安元年(一三六八)五月二一日、平一揆の盟主であった河越直重が高麗季澄に「赤塚郷内石成村半分」を宛行っている(「河越直重充行状」町田文書)。康暦元年(一三七九)六月二五日の如春寄進状案(鹿王院文書)には赤塚郷のうち「いしなりはのそき候ぬる」とある。この二つの文書は河越氏が壊滅的打撃を受ける応安元年六月の平一揆の乱前後に発給されており、高麗季澄に宛行われた石成村半分は平一揆与同の地として、いったん鎌倉府に収公されたとみられる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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