米の値段のこと。米価は米の流通の各段階に存在する。米の生産者の販売価格が生産者米価であり、米の消費者の購入価格が消費者米価であるが、このほか、産地の集荷業者が消費地の卸売業者に売る価格、卸売業者が小売業者に売る価格(卸売価格)もある。また米価は米の品質(銘柄・等級)によっても差があり、銘柄・等級別に多様な米価が各段階別に形成される。もっとも、白米の品質は銘柄・等級別ではなく、上中下などのような別の区分も行われる。
米価は、米の商品としての大量性、生活必需品としての重要性から、昔から「物価の王」として重要視されてきた。太平洋戦争前までの自由取引時代には、米も先物取引が行われており、各地の米穀取引所でいわゆる「米相場」がたてられ、相場師が活躍していたのである。取引所における先物は期米といわれ、その価格は期米価格といわれた。これに対し現物は正米(しょうまい)といわれ、その取引と価格形成の中心は正米市場であった。正米市場は産地の集荷市場を別とすれば、東京、大阪などの大都市に限られたが、その価格は全国の米価の指標となった。とくに東京の深川正米市場の中米の平均価格は米価の標準となっていた。江戸時代においても、米はすでに全国的に流通する重要な商品であった。流通の主力は、領主が農民から徴収した年貢米であり、したがって、それが輸送され販売される江戸、大坂、城下町を主とする地方都市に限られてはいたが、米穀市場が生まれ、帳合米といわれる先物取引も行われていたのである。
[持田恵三]
米価はその経済、社会に占める重要性からいって、早くから政府の政策の対象となっていた。米価政策の基本は、高すぎる米価を抑制する、安すぎる米価を引き上げる、あるいは米価の変動を抑えて安定させる、といった目的をもつものであるが、どの水準に安定させるかが問題であり、それによって高米価、低米価のどちらかになることになる。江戸時代すでに幕府によってしばしば米価調節政策が行われたが、手段は米価法定(1657年、1735年)、米価引下令(多数)、米の買上げ・払下げ、酒造制限、株仲間への干渉などであったが、とくに飢饉(ききん)の際の引下げ策が目だっている。
[持田恵三]
明治政府は地租改正を円滑に進めるため、常平局を設けて米の買上げを行い、米価の維持をねらい、その一部を輸出して外貨を獲得した。しかしこの米価政策は一時的なものにとどまり、以後日露戦争時まで米価は放任されていた。米価に対する政府の介入が始まるのは、1904年(明治37)の日露戦争のための非常特別税のなかに米・籾(もみ)輸入税が設けられたときである。これは地租増徴への対価として多分に財政目的のものであったが、この輸入税は日露戦争後も継続して保護関税化していった。明治30年代なかばから本格的な米輸入国に日本はなっていたのであり、関税は一定の米価支持政策を意味していた。1915年(大正4)に米価支持のための臨時の米価調節令が出されたことはあったが、大正年間は米価調節政策が盛んに論議されながらも、本格的な米価政策は1921年まで行われなかった。しかしこの間は、1918年の米騒動を頂点とする米価の激動の時代であった。この空前の高米価抑制のために、取引所干渉、外国米管理令といった一時的な対策が行われた。この効果はたいしたものではなかったが、米騒動を契機として食糧対策の必要が認識された。その一つは植民地米を中心とする増産・自給政策であったが、それと並んで恒久的な米価安定政策が求められた。後者は1920年の第一次世界大戦後の恐慌による米価暴落を契機とする、農業団体(主として地主)の運動から生まれた米穀法である。
[持田恵三]
米穀法(大正10年法律第36号)は、「政府は米穀の需給を調節する為(ため)必要ありと認むるときは米穀の買入、売渡、交換、加工又は貯蔵を為(な)すことを得」という簡単なもので、これに2億円の借入れを限度とする米穀需給調節特別会計がつけられていた。米穀法は1925年に改正されて「価格の調節」を目的に加えたが、当時は政府の買入量も少なく、たいした役割も発揮しなかった。しかし米穀法は、政府が米価に一定の責任をもつという体制の出発点となり、食糧管理法まで続くのである。米穀法が本格的に活動を始めるのは、1929年(昭和4)からの大恐慌のなかであった。1927年後半から下がり始めた米価は、植民地米の大量輸入と相まって、恐慌下にいっそう暴落した。1929年に特別会計の借入れ限度を拡大して、政府は、1927年26万トン、1928年15万トン、1930年30万トン、1931年31万トンと米の買入れを行い、1931年には米穀法の第二次改正を行って、いっそう米価対策を強化した。第二次改正によって米の間接統制はほぼ形を整え、1932年の第三次改正、さらに1933年の米穀統制法に至って完成をみることになる。
[持田恵三]
米穀統制法(昭和8年法律第24号)は、最低価格と最高価格を決め、その価格内で無制限に買入れ・売渡しを行うものであり、この範囲に米価を安定させるはっきりした意図をもつものであった。最低価格は生産費と物価参酌値(率勢米価。つまり物価パリティに、米価が物価より少しずつ上回るという過去の傾向を加味したもの)に基づいて決められ、最高価格は家計費と物価参酌値に基づいて決められた。米穀統制法によって政府は1934年に155万トンの大量買入れを行い、当時の米過剰下の米価低落を支えたのである。しかし米過剰は1935年からは不足に転じ、1936年に成立した米穀自治管理法も施行されることなく終わり、米価政策は以後抑制の方向に転換した。最高価格を維持するために、それまで買い込んだ政府米を売ることがその手段であったが、1939年の朝鮮の大干魃(かんばつ)以後、米不足は決定的になり、売るべき米はなくなってしまう。戦争の拡大とともに、米価を抑え、米を国民に公平に分配するためには、直接統制へと進まざるをえなくなり、1939年の米穀配給統制法を経て、1942年の食糧管理法による強権的な直接統制が始められた。
[持田恵三]
食糧管理法(昭和17年法律第40号)は、「国民食糧の確保及国民経済の安定を図る為食糧を管理し其(そ)の需給及価格の調整並に配給の統制を行うことを目的とす」るもので、米麦その他の主要食糧を、自家用分を除いてすべて政府が強制的に買い入れ、それを政府が消費者に計画的に配給する制度であった。つまり供出と配給が基本となり、米の自由流通はなくなり、米価はすべて公定された。買入価格、売渡価格は、それぞれ生産費と家計費、それに物価その他の経済事情を参酌して決めることになっていた。しかし統制であるため、両価格の関連はいちおう断たれ、二重価格制となった。供出価格についても、生産者は地主より有利に決められた。生産者米価はいちおう生産費主義をとっていたけれど、厳しい食糧不足のなかであったから、米価は全体として抑制的であった。
第二次世界大戦後の食糧不足時代にも食糧管理法によって米価は抑制されていた。生産者米価はインフレのなかでパリティ方式で決められた。このパリティ方式は、その内容はいろいろと変わったが、いちおう1959年(昭和34)まで続けられた。1951年までのパリティ方式は、1934~1936年平均を基準年次としたものであったが、需給実勢に対し安かったため、インフレの激しかった時代には、追加払いという制度も採用され、供出に対してもさまざまな形の奨励金がつけられた。それでも闇米(やみごめ)が横行し、都市の闇値は1946年6月には公定の24倍にもなった。消費者も、配給量が少なく、しかもそれも完全には行われなかったため、闇米に頼らざるをえなかった。食糧事情が好転し強権的供出が困難になると、各種奨励金による事実上のパリティ価格引上げが行われたが、1953年ごろまでは国内米価は国際価格を下回っており、米価はなお抑制的であった。1955年の米の大豊作を転機として、米の需給は緩和し、国際価格も下がったため、日本の米価はしだいに国際的に割高になる一方、国内では闇米価格が下落した。また日本経済の復興と高度成長の開始にもかかわらず、物価は安定していたので、パリティ米価が上がらなかったため、都市勤労者と農民との所得格差は拡大し、米価引上げの要求が農民の間で強まった。これに対して採用された新しい生産者米価決定方式が、生産費・所得補償方式である。これは、前3か年平均の米生産費をもととし、このうち物財費は当年価格、自家労賃分は都市勤労者賃金で評価替えした生産費に基づいて生産者米価を決定する方式である。1960年から採用されたこの方式によって、高度成長による都市勤労者賃金の上昇とともに、生産者米価も引き上げられた。ことに1970年代からの米過剰が発生する以前の米不足基調の下では、生産者米価引上げの農民の要求が強く、この方式の枠内で年々米価が上がるような計算方法が採用されて、生産者米価は急速に引き上げられた。
消費者米価と政府売渡価格は、戦後1947年産米から、生産者価格に経費を加えたコスト価格が採用された。この独立採算時代は数年であったが、生産者米価算定方式としての生産費・所得補償方式の採用に伴って消費者米価は生産者米価との関連を失い、二重米価制が定着した。そして生産者米価引上げに対し、消費者米価の引上げが遅れる傾向が続いた。このため両者の関係は、1963年から政府売渡価格が生産者価格(政府買入価格)より安い、いわゆる逆ざやになり、1986年産米に至るまで続いた。消費者米価の決定方式は前述した家計米価であったが、勤労者所得の上昇が続くなかでは、この方式は消費者米価上昇を抑える役割を果たせず、消費者米価引上げ抑制は消費者への政治的配慮によるものであった。逆ざやの発生の結果、食管会計の赤字が発生、増大した。そして食管赤字の問題は米価政策の重要な要素となった。
1961年からの農業基本法の下での農業政策は、かならずしも米価引上げを指向しはしなかったが、所得均衡を求める農民側の要求がもっぱら米価引上げに集中し、その要求を与党の農林議員の力を借りて通したために、米価は相対的に高くなり、米は農民に有利な作目となった。米生産は増加し、1969年以来米過剰となった。米過剰が発生してから、政策当局は生産者米価を抑制的に決めようとし、生産費・所得補償方式のなかでの計算方法を、米価をなるべく引き上げないようにと変えたため、米価は1968年以降1972年までほぼ横ばいに推移した。しかし1972年の食糧危機による国際価格の急騰、1973年の石油危機によるインフレ、そして同じころの一時的な米過剰の解消もあって、生産者米価引上げへの農業団体の要求が強まり、1973~1975年に生産者米価は大幅に引き上げられた。しかし米過剰が再発し、国際食糧需給も緩和したため、以後生産者米価は抑制された。
消費者にとっては1960年代以降、米需給の緩和とともに、それまでの高い闇米はなくなった。しかし消費者の良質米需要の増大とともに、自由米という形での良質米の闇流通が発生し、配給米との間に価格差が生まれた。配給制度の枠内でも特選米などの方式での対応は行われたが、それも限界があり、結局、1969年から自主流通米制度が発足し、1972年4月からは小売価格について物価統制令の適用が廃止されるに至った。1960年代以降、供出・配給という統制としての食管制度はまったく崩れていたのであり、事実上の統制撤廃が進んでいた。1981年の食管法改正はこれを追認したものであり、これによって新しい米価の体系が生まれたのである。
[持田恵三]
1981年に改正された食管法の下での米価は、大きく分けて政府米に関するものと自主流通米に関するものとがあった。政府米の価格は、生産者からの買入価格と政府の卸商への売渡価格とが、毎年米価審議会の議を経て決定された。1994年(平成6)産米については、前者は60キログラム当り1万6392円(玄米、1~5類、1~2等平均、包装費込み)であり、後者は1万8123円(同前)であった。1~5類は産地・品種による銘柄の区分で、1類から5類に至る順に品質が落ち、価格も差がつけられる。等級も1~3等があり、1等から3等に至る順に品質が落ち、価格差がつけられている。
生産者米価の決定方式は、1960年から生産費・所得補償方式がとられてきた。しかし、この方式は米の需給状態、財政事情によって価格決定が大きく左右されるのが実情であり、1977年以後1982年まで、生産者米価はほとんど引き上げられていないし、1984~1986年は据置きであった。1987年は生産費が大幅に下がったために、31年ぶりに約6%引き下げられた。1988年も4.6%の引下げであった。以後、食糧法(1995年施行)まで、生産者米価は据え置かれた。政府売渡価格の決定方式は家計米価方式による。家計米価方式とは、ある基準年からの家計の伸び率の範囲に、消費者米価の上昇率を抑えるように、政府売渡価格を決める方式である。家計の伸び率が10%なら、売渡価格の値上げ幅も10%以内となる。この方式は上限があるだけでかなり自由度が大きく、もっぱら財政事情によって値上げが決められるようになった。しかし政府買入価格の引下げに伴って、政府売渡価格は買入価格より若干多めに引き下げられた。
消費者米価は自由であって、小売商に任されているが、政府米を原料とした標準価格米を常置することになっており、その価格は政府売渡価格に一定のマージンを加えたものが指導価格となっている。1994年の標準価格米価格は、地域によって原料の構成が異なるので差があるが、精米10キログラム3850円が基準である。このほか、より低質で安い米として徳用上米があったが、その数量は少なかった。
自主流通米の価格(建値)は自由であるが、自主流通米価格形成機構(1995年に名称変更し、自主流通米価格形成センターとなり、2004年には全国米穀取引・価格形成センターとなる)での入札により決まる。この建値は集荷業者(ほとんど農協)が卸売業者に売り渡す価格であり、生産者の価格は、これから発地経費を差し引いたものになる。しかし当時の自主流通米制度では、政府米の逆ざやが大きいので、その差を埋めて流通を円滑にするために種々の助成措置がとられ、販売促進費、良質米奨励金などが生産者や流通担当業者に支給されていた。だから生産者の手取り額は、これらのうち生産者に還元されるものを加えた額となる。自主流通米の建値は、1994年産の最高は新潟産コシヒカリであり、60キログラム当り2万5866円で、政府米売渡価格よりも7743円高い。自主流通米の消費者価格は自由であり、地域により、小売店によりまちまちであるが、自主流通米を原料とした上米で全国平均10キログラム当り6052円(1994年10月)であった。
[持田恵三]
1994年には食糧管理法にかわり、「食糧法」(平成6年法律第113号、正式には「主要食糧の需給及び価格の安定に関する法律」)が制定された。その下では主として流通する米が自主流通米のため、米価は自主流通米の価格となる。この価格は従来どおり、自主流通米価格形成センターにおける入札により決まる。ただし価格形成には一定の変動幅が設けられており、完全に自由ではない。しかしセンターに上場される米は流通量の25%であり、ほかはセンターで形成された価格を基準として相対で取引される。この点は従来とあまり差はない。食糧法のもとで政府米のもつ意味は小さくなったが、自主流通米間の格差は拡大傾向にある。
1960年の生産者米価決定における生産費・所得補償方式の導入以来の米価政策は、国際価格より高く国内米価を支持し、生産者を保護するものであり、1955年ごろまで国際価格と差がなかった国内米価は、その後円高の影響も加わって、1989年にはアメリカと比べて生産者米価で7倍、消費者米価で2倍以上にもなった。その意味では米価政策は、もっぱら生産者のためのものであり、農業保護政策の中核であった。しかし1987年より米価は下落傾向にあり、稲作農家の経営には引き合わない水準になっている。市場原理が導入された食糧法施行以後もこの傾向は続き、生産費の安い大規模経営農家の経営をも厳しくさせている。
[持田恵三]
『中沢辨次郎著『日本米価変動史』(1933・明文堂)』▽『『日本食糧政策史の研究』全3巻(1951・食糧庁)』▽『『食糧管理史』全10冊(1969~72・食糧庁)』▽『近藤康男編『日本農業年報第17集 食管制度――構造と機能』(1968・御茶の水書房)』▽『近藤康男編『日本農業年報第28集 食管――80年代における存在意義』(1980・御茶の水書房)』▽『大内力編『日本農業年報第42集 政府食管から農協食管へ』(1995・農村統計協会)』▽『持田恵三著『日本の米――風土・歴史・生活』(1990・筑摩書房)』▽『日本農業研究所編『食糧法システムと農協』(2000・農林統計協会)』
米の値段。米価は他の商品と同じく,その流通の各段階ごとに存在する。まず生産者が集荷業者に販売する価格が生産者米価(業者が農家まで取りにくる場合は庭先価格)であり,産地の集荷業者が消費地の卸売業者に売る価格,卸売業者が小売業者に売る価格(卸売価格)を経て,最後に小売業者が消費者に売る価格(小売価格)が消費者米価である。米価は米の品質によって差があり,玄米の場合は銘柄,等級別に多様な価格が各段階ごとに形成されるが,小売白米は小売業者がそれぞれ品質別の何種類かの商品を作り,価格をつけるのが普通である。
食糧管理法の廃止(1995)までの食糧管理制度のもとでは,米は政府米と自主流通米(1969年産米から制度化)に分けられていた。政府米の場合は生産者価格は政府の買入価格であり,卸商へ政府が売る価格が売渡価格であって,いずれも毎年米価審議会の議を経て政府が決定する。生産者米価の算定方式は生産費および所得補償方式による。この方式のたてまえは米の生産費に基づいて価格を決めるが,その生産費中の自家労賃の計算には都市勤労者の賃金を用いるということである。つまり生産農民が米作に投下した労働が,都市勤労者並みに評価されるように米価を決めるということになる。しかしこの方式も実際には裁量の余地が多く,米価を高く決めることも安く決めることも可能であり,その時々の米の需給状態,財政事情などによって,価格決定が左右されてきたのが実情であり,近年の米過剰と財政困難のもとで1977年以来生産者米価はほとんど引き上げられていなかった。
1995年食糧管理法に代わって食糧法が制定され,食糧管理制度は大きく転換し,米価決定に新たな方式が導入された。新方式は,自主流通米が米流通の主体となる状況に対応して,自主流通米価格形成センターで形成される自主流通米の入札価格の動向と,生産費調査に基づく米販売農家の全算入生産費の動向とを比較し,それらの変動率を均等にウェート付けして,前年産米の政府買入価格に乗ずる方式となった。価格を決定する時期も,食管法時代には6~7月ころであったが,新方式では生産者の営農活動との関連から前年秋に繰りあげられた。政府が買い入れる国内産米(外国産米をミニマム・アクセスとして一定量を恒常的に輸入する仕組みが,ウルグアイ・ラウンド農業合意にもとづき1995年から始まった)は,食糧備蓄のために必要な量を買い入れることを目的としている。
旧制度のもとでは,米価決定は以下の方式でなされた。例えば,83年産米の生産者価格は次のように決められた。計算の対象となる農家は生産費調査の対象農家のうち,生産費の低いものから順に並べて,その累積生産数量が総生産数量の80%になるところまでの販売農家とする。80%というのは米の潜在生産能力に対する総需要量の比であり,米の生産調整をしている状況を米価に反映させるための措置である。この対象農家について次の算式により計算する。
ここで,Pは求める価格。 は価格決定年の前3年の各年の対象農家の10a当り平均生産費,ただし家族労働費は都市均衡労賃により評価替えし,物財費・雇用労賃は直近時点に物価修正したもの。 は価格決定年の前3年の各年の対象農家の10a当り平均収量。Nは年数(3年)。なお都市均衡労賃は,都道府県別の米販売数量により加重平均して算出する製造業従事者(規模5~1000人)の全国平均賃金に調整係数を乗じて得た額による。調整係数は,米生産地帯の賃金の伸びが低いため,それを上方修正する意味である。この算式で計算した価格は60kg当り1万7820円で,これに運搬費176円を加えた基準価格が1万7996円となる。これをうるち軟質1等米裸価格に換算すると1万8112円となり,1~5類,1~2等平均包装込みの生産者手取予定価格は1万8266円となる。これは前年比1.75%の引上げであった。なお1~5類は産地,品種により区分され,等級は検査によって3等級に分けられ,それぞれ価格差が決められていた。
政府売渡価格は家計米価方式によった。この方式は生産者米価のように一定の価格が算定されるものではなくて,値上げの限界を画するものである。つまり基準年次(1984年現在は1967年7月~68年6月)と算定時前の1ヵ年(1984年2月改訂の際は1982年10月~83年9月)の家計費(可処分所得)の伸び率の範囲内に,売渡価格の上昇率をとどめるようにすることであり,この間の家計の伸びが大きかったために,実際の値上げ率はこの限界のはるかに下であり,算定方式上の制約はほとんどない。84年2月改訂の際の値上げ率の上限は54.6%で,値上げ率は3.76%であり,標準売渡価格は水稲うるち1~5類,1~2等平均包装込み玄米60kg当り1万7673円となった。売渡価格も銘柄,等級によって格差がつけられていた。
新食糧法のもとでの自主流通米の価格は,前述したように自主流通米価格形成センターにおける入札により決まる。入札の出し手は産地集荷業者の団体(二次集荷業者,大部分は道府県経済農業協同組合連合会)であり,買い手は卸商である。入札は東京・大阪において年に6~8回行われる。上場数量は当該銘柄の流通量の25%である。価格はその時々の各銘柄の需給によって決まるが,価格の変動幅は前年の基準価格,前回の価格により制限されているから,そう大きな変動は起きない。具体的な取引は大部分相対取引であり,その際の価格は入札価格を基準としている。旧来の自由米に当たる計画外流通米は合法化され増加しているが,その価格は自由である。しかしその価格は自主流通米の価格が基礎になる。小売価格は新食糧法のもとでまったく自由になったが,スーパー等の量販店が価格形成の中心になってきている。しかし自主流通米の価格により卸売価格が決まるから,自主流通米価格の変動に連動している。
米価は第2次大戦前には〈物価の王様〉といわれたが,それは生活に占める米の地位の高さ,商品としての量の大きさから,その価格が全物価の指標的な意味をもっていたからである。戦前の自由市場時代には米の先物取引も行われ,取引所の先物を期米(期米相場)といい,これに対し現物を正米(正米相場)と呼んでいた。1881年以降,西南戦争での不換紙幣増発によるインフレに対処するために紙幣整理など緊縮財政政策がとられた。このため米価は長期にわたり低迷を続け(図1参照),中小地主の小作農化・賃金労働者化と大地主への土地集中が進んだ。また都市人口の増加のため米の消費量が増加し,日清戦争以後,米の輸入超過は恒常化した。景気と作柄による米価の極端な変動は生産者,消費者ともに打撃が大きいため,米価に対する政策的介入は輸入関税政策のほか,市場に対する政府の介入としては最も早く明治末から始められ,1915年には米価調節令が公布された。それは米騒動以後強められて21年の米穀法(政府が自由市場で米の売買操作をして,間接的に米価の変動を調節する)によって恒久化した。完全に自由放任の米価はそれ以後なくなり,公定価格を定め政府が無制限に米を買い入れる米穀統制法(1933)をへて,米価統制は42年,米の供出・配給制と公定米価を定めた食糧管理法によって流通米全量に対する国家管理として完成した。以後,第2次大戦の戦時下と戦後長く米価はあらゆる段階で公定されるようになった。
戦後生活が貧しかった時代,とくに食糧不足時代には,米価と米の配給への消費者の関心は強く,また生産者にとっては〈やみ〉で売れば高く売れるものを,強制的に供出させられる点から,生産者価格への不満は強かった。当時の生産者価格はパリティ方式(パリティ指数)で算定された。その内容はいろいろあるが,基本的にはインフレ時代に対応して米価を生産農家の購入品の価格にスライドさせて決めるというものであった。当初の基準年次は1934-36年平均であった。しかしこれでは実勢に対し低かったために,各種の奨励金がつけられて実質はパリティ価格を上回った。55年の大豊作を転機として米の需給が緩和し,またインフレの終息によって物価が安定すると,パリティ方式では米価は上がらなくなった。そして都市勤労者と農民との所得格差が拡大しはじめると,それまで抑制的に決められていた米価を引き上げる要求が生産農民側に強まった。60年から,それまでのパリティ方式に代えて生産費および所得補償方式が採用されたのは,このような事情によるものであった。
この方式のもとで高度成長下の賃金上昇が米価にはね返って,生産者米価は急速に引き上げられた。生産者側は所得均衡,農業保護をもっぱら普遍的な作物たる米に求めたのである。春闘により勤労者の獲得した賃金水準が米価の基礎になり,夏の生産者米価は〈農民の春闘〉という様相を呈した。政府売渡価格も買入価格の上昇に追随したが,消費者,物価への配慮から遅れたためにしだいに逆ざやが生まれた。しかし67年からの米過剰が始まるとともに,米価は抑制的となり72年までほぼ横ばいに推移したが,食糧危機,石油危機を契機に大幅に上昇し,76年ころからは米過剰の再現によって再び抑制されるようになった。このように米価は算定方式によって自動的に決まるのではなく,事実上,そのときの需給状態,政治・経済情勢によって決まる面が強く,しばしば〈政治米価〉といわれている。米価の決定方式の結果として,日本の米価は生産者米価でアメリカの8.7倍(1994),小売価格でニューヨークの9.0倍,ロンドンの5.2倍の高水準となっている(1995)。
→米
執筆者:持田 恵三
米価は日本においては,かつてはつねに物価の中心的な地位を占めていたが,それが経済社会に大きな影響を及ぼしてくるのは,社会的分業化と貨幣経済化の度合に応じている。
今日,奈良~平安初期の皇朝十二銭で評価された古代の米価動向を知ることができ,とくに8世紀後半に急激な米価高騰が生じたが,その原因は主として貨幣需要を上回る増鋳と新銭改悪によるものであり,また,平安初期も高騰はあとをたたず公定米価を定めたり,京中で官米の放出による物価安定をはかったりしているが,貨幣流通も京畿周辺に限られていたので,高騰による悪影響はきわめて限定されたものであった。しかし,中世に入り,荘園年貢の代銭納化が全国的に進展するにともなって,物価に占める米価の比重は高まった。鎌倉期の米価は1石につき銭1貫文が標準とされていたが,山城国東寺領の場合,14世紀末に750文ほどまで下がり,15世紀20年代にかけて1貫100文まで上昇したあと,16世紀中期にいたる1世紀間余,550文の水準まで長期低落していった。また,京都,奈良を中心とした米価史料によれば,同様に16世紀中葉まで低落したあと,いったん停滞し,17世紀に入って急騰した。他方,播磨では15世紀前半の高騰期に600文の安定水準で推移しており,地域による価格差が大であったことがわかる。ただし,中世以前の米価は,統一的な貨幣制度が確立していないうえに,枡の容量が地域や取引段階によってきわめて多様であったので,今日断片的に知られる米価動向から経済変動のもようをさぐるには,まだ多くの困難がある。
近世に入ると,江戸,大坂のような大都市が急成長し,地方でもあらたに城下町が建設されて,米の消費市場が拡大したうえに,貢租が米の量で表される石高で統一され,領主は貢租収入の基本となった米の自家消費以外の余剰分を販売・換金する必要が生じたので,米価の動向は近世経済にとっていちだんと意義深いものとなった。一方,貨幣制度は,幕府があらたに金・銀・銭の三貨を鋳造し,相互の交換割合を公定したので,前代までの複雑な貨幣流通は一掃された。しかし,米価表示は,江戸を中心とする東日本では金貨を中心として,金1両につき何石何斗何升,京・坂を中心とする畿内周辺では銀貨を中心として,米1石につき銀何拾何匁,中央地帯から遠隔の東北や西南日本の一部では中世から引き続き銭貨が基本通貨となり,米1石につき銭何貫何百文というように,三貨が併存し,近代的な貨幣制度統一にはいま一歩の状態であった。また,枡制は一部地域を除き,17世紀後半までには京枡で統一され,全国的取引の円滑化に役立った。また,おなじく,東廻海運,西廻海運も整備され,江戸・大坂への廻米とともに蔵屋敷,堂島米市場,米会所,米問屋などの米取引組織も発達して,中央-地方米価の格差は輸送諸経費の範囲内に縮小し,ここに全国的米市場が成立した。ただし,水運に比べると陸上輸送網の整備は大きく立ち遅れ,山間部の米価は近世中期以降まで,比較的独自な動きを示した。
近世米価の変動要因には,短期的には年々の作柄や世相不安,貨幣改鋳による通貨価値の変動などがあり,長期的には農業生産力,人口,輸送体系,流通組織,および貨幣供給量などがある。近世を通じて17世紀は米価構造がもっとも大きく変動した(図2参照)。はじめて幕府貨幣が改鋳された17世紀末までの間,西日本では米1石につき銀15~20匁の水準から50匁前後の水準へと,漸次2~3倍も上昇した。この期に耕地面積は約2倍は増加し,農業生産も約5割増加したと見込まれているが,人口はそれ以上のスピード(推定増加率約3倍)で増加したため,供給が需要に追いつかなかったことが知られる。この間,1640年(寛永17)前後に大きな高騰期があったが,これは全国的な天候不良による凶作が持続したことによる(寛永の飢饉)。17世紀末から1730年代までの40年間に,金貨は4次,銀貨は7次にわたる改鋳が続き,米価は大きくゆれた。とくに享保期(1716-36)の低水準が前後の時代と際立っているが,これは経済の発展に応じて貨幣増鋳が必要とされ,そのためにはある程度の貨幣の質の低下が不可避であったにもかかわらず,あえて貨幣良鋳・収縮政策をとったことによる。つづく1736年(元文1)-1818年(文政1)の元文金銀の時代は,米価は比較的安定し,中央市場では横ばいないし若干低落気味であった。ただ,九州,信州,出羽のような遠隔地では若干上昇気味に推移し,いずれも中央より低水準であったので,価格差がそれだけ縮小する結果となった。主として冷害による持続的な凶作の続いた天明期(1781-89)はどの地も高騰し,その後文化期(1804-18)に向かってゆるやかに低落していったが,農業生産力の復興に相当な年月を要したことがわかる。1819年(文政2)文政改鋳以降,一転して上昇期に入った。その主因は天保,安政,万延と続く貨幣増鋳にあり,とくに60年(万延1)以降の急騰は開国にともなう貨幣相場の変更によるものであった。68年(明治1)5月の〈銀目停止令〉により銀建米価の呼称は金建てに変更され,さらに71年には〈両〉から〈円〉に切り替えられ,同時に高騰していた米価も下降に向かうこととなって,ここに前近代的な米価体系は幕をとじた。
執筆者:岩橋 勝
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…江戸幕府が富裕町人に市中の米を買い上げさせることで中央市場の米価上昇を図った政策。1731年(享保16)から1810年(文化7)まで大坂で6度,江戸で1度の実施が確認できる。…
…
[成立]
一般的には,国家による食糧管理を要請するのは食糧の供給不足・価格高騰か供給過剰・価格暴落の発生である。食管法の起点となった米穀法が制定された1921年は米騒動の4年後ではあったが,一方では国民1人当り米消費量のピークへの到達と,他方では国産米生産力増強とともに,植民地朝鮮・台湾での米移出力の強化によって,供給過剰による内地米の価格低下が問題とされ,政府による米穀の売買・加工・貯蔵,輸入税の増減,輸出入の制限等を通じて,米穀の数量調節を行い,米価暴落の防止が目指された。これ以後,昭和農業恐慌対策としての31年の米穀法改正(米穀輸出入の許可制,安定価格帯制度の導入),33年の米穀統制法(最低価格による政府の無制限買入義務),36年の米穀自治管理法(過剰米の市場供給制限のための産地貯蔵)など,38年までは米穀の市場流通を前提とした間接統制を通じた過剰対策が主眼となっていた。…
…その換算相場を支払のつど,江戸城内の中ノ口に張紙したところから,この名があり,値段の表示は米100俵(35石)当りの金額で行われた。この相場は江戸市中の米価に準拠しているが,財政・米価・旗本救済などの諸点をも考慮して決定された。年貢石代納(こくだいのう)の換算値段は,一般に近在の米市場の相場を基準にするが,関東と甲州の一部の幕領では,張紙値段に一定の増値段を加えて使用している。…
…所得についてのパリティを保障するような指数を所得パリティ指数という。 米価については1960年産米から生産費・所得補償方式が採用され,麦価についても88年からパリティ指数は廃止され,生産費に基づく方式が採用された。そのほか大豆,ナタネ,テンサイなどの行政価格を決定する際,その資料のひとつとして農業パリティ指数は用いられる。…
※「米価」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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