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米価 べいか

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

米価
べいか

米の価格。米価には生産者が政府に売り渡す生産者米価と,消費者が購入するときの消費者米価があった。生産者米価食糧管理法3条に基づき生産費・所得補償方式パリティ方式などを参考に,米価審議会が答申し,政府が決定した。

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デジタル大辞泉の解説

べい‐か【米価】

米の値段。「―を据え置く」「生産者―」

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世界大百科事典 第2版の解説

べいか【米価】

米の値段。米価は他の商品と同じく,その流通の各段階ごとに存在する。まず生産者が集荷業者に販売する価格が生産者米価(業者が農家まで取りにくる場合は庭先価格)であり,産地の集荷業者が消費地の卸売業者に売る価格,卸売業者が小売業者に売る価格(卸売価格)を経て,最後に小売業者が消費者に売る価格(小売価格)が消費者米価である。米価は米の品質によって差があり,玄米の場合は銘柄,等級別に多様な価格が各段階ごとに形成されるが,小売白米は小売業者がそれぞれ品質別の何種類かの商品を作り,価格をつけるのが普通である。

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大辞林 第三版の解説

べいか【米価】

米の値段。 「生産者-」

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

米価
べいか

米の値段のこと。米価は米の流通の各段階に存在する。米の生産者の販売価格が生産者米価であり、米の消費者の購入価格が消費者米価であるが、このほか、産地の集荷業者が消費地の卸売業者に売る価格、卸売業者が小売業者に売る価格(卸売価格)もある。また米価は米の品質(銘柄・等級)によっても差があり、銘柄・等級別に多様な米価が各段階別に形成される。もっとも、白米の品質は銘柄・等級別ではなく、上中下などのような別の区分も行われる
 米価は、米の商品としての大量性、生活必需品としての重要性から、昔から「物価の王」として重要視されてきた。太平洋戦争前までの自由取引時代には、米も先物取引が行われており、各地の米穀取引所でいわゆる「米相場」がたてられ、相場師が活躍していたのである。取引所における先物は期米といわれ、その価格は期米価格といわれた。これに対し現物は正米(しょうまい)といわれ、その取引と価格形成の中心は正米市場であった。正米市場は産地の集荷市場を別とすれば、東京、大阪などの大都市に限られたが、その価格は全国の米価の指標となった。とくに東京の深川正米市場の中米の平均価格は米価の標準となっていた。江戸時代においても、米はすでに全国的に流通する重要な商品であった。流通の主力は、領主が農民から徴収した年貢米であり、したがって、それが輸送され販売される江戸、大坂、城下町を主とする地方都市に限られてはいたが、米穀市場が生まれ、帳合米といわれる先物取引も行われていたのである。[持田恵三]

米価政策の歴史

米価はその経済、社会に占める重要性からいって、早くから政府の政策の対象となっていた。米価政策の基本は、高すぎる米価を抑制する、安すぎる米価を引き上げる、あるいは米価の変動を抑えて安定させる、といった目的をもつものであるが、どの水準に安定させるかが問題であり、それによって高米価、低米価のどちらかになることになる。江戸時代すでに幕府によってしばしば米価調節政策が行われたが、手段は米価法定(1657年、1735年)、米価引下令(多数)、米の買上げ・払下げ、酒造制限、株仲間への干渉などであったが、とくに飢饉(ききん)の際の引下げ策が目だっている。[持田恵三]
明治時代
明治政府は地租改正を円滑に進めるため、常平局を設けて米の買上げを行い、米価の維持をねらい、その一部を輸出して外貨を獲得した。しかしこの米価政策は一時的なものにとどまり、以後日露戦争時まで米価は放任されていた。米価に対する政府の介入が始まるのは、1904年(明治37)の日露戦争のための非常特別税のなかに米・籾(もみ)輸入税が設けられたときである。これは地租増徴への対価として多分に財政目的のものであったが、この輸入税は日露戦争後も継続して保護関税化していった。明治30年代なかばから本格的な米輸入国に日本はなっていたのであり、関税は一定の米価支持政策を意味していた。1915年(大正4)に米価支持のための臨時の米価調節令が出されたことはあったが、大正年間は米価調節政策が盛んに論議されながらも、本格的な米価政策は1921年まで行われなかった。しかしこの間は、1918年の米騒動を頂点とする米価の激動の時代であった。この空前の高米価抑制のために、取引所干渉、外国米管理令といった一時的な対策が行われた。この効果はたいしたものではなかったが、米騒動を契機として食糧対策の必要が認識された。その一つは植民地米を中心とする増産・自給政策であったが、それと並んで恒久的な米価安定政策が求められた。後者は1920年の第一次世界大戦後の恐慌による米価暴落を契機とする、農業団体(主として地主)の運動から生まれた米穀法である。[持田恵三]
米穀法
米穀法(大正10年法律第36号)は、「政府は米穀の需給を調節する為(ため)必要ありと認むるときは米穀の買入、売渡、交換、加工又は貯蔵を為(な)すことを得」という簡単なもので、これに2億円の借入れを限度とする米穀需給調節特別会計がつけられていた。米穀法は1925年に改正されて「価格の調節」を目的に加えたが、当時は政府の買入量も少なく、たいした役割も発揮しなかった。しかし米穀法は、政府が米価に一定の責任をもつという体制の出発点となり、食糧管理法まで続くのである。米穀法が本格的に活動を始めるのは、1929年(昭和4)からの大恐慌のなかであった。1927年後半から下がり始めた米価は、植民地米の大量輸入と相まって、恐慌下にいっそう暴落した。1929年に特別会計の借入れ限度を拡大して、政府は、1927年26万トン、1928年15万トン、1930年30万トン、1931年31万トンと米の買入れを行い、1931年には米穀法の第二次改正を行って、いっそう米価対策を強化した。第二次改正によって米の間接統制はほぼ形を整え、1932年の第三次改正、さらに1933年の米穀統制法に至って完成をみることになる。[持田恵三]
米穀統制法
米穀統制法(昭和8年法律第24号)は、最低価格と最高価格を決め、その価格内で無制限に買入れ・売渡しを行うものであり、この範囲に米価を安定させるはっきりした意図をもつものであった。最低価格は生産費と物価参酌値(率勢米価。つまり物価パリティに、米価が物価より少しずつ上回るという過去の傾向を加味したもの)に基づいて決められ、最高価格は家計費と物価参酌値に基づいて決められた。米穀統制法によって政府は1934年に155万トンの大量買入れを行い、当時の米過剰下の米価低落を支えたのである。しかし米過剰は1935年からは不足に転じ、1936年に成立した米穀自治管理法も施行されることなく終わり、米価政策は以後抑制の方向に転換した。最高価格を維持するために、それまで買い込んだ政府米を売ることがその手段であったが、1939年の朝鮮の大干魃(かんばつ)以後、米不足は決定的になり、売るべき米はなくなってしまう。戦争の拡大とともに、米価を抑え、米を国民に公平に分配するためには、直接統制へと進まざるをえなくなり、1939年の米穀配給統制法を経て、1942年の食糧管理法による強権的な直接統制が始められた。[持田恵三]
食糧管理法
食糧管理法(昭和17年法律第40号)は、「国民食糧の確保及国民経済の安定を図る為食糧を管理し其(そ)の需給及価格の調整並に配給の統制を行うことを目的とす」るもので、米麦その他の主要食糧を、自家用分を除いてすべて政府が強制的に買い入れ、それを政府が消費者に計画的に配給する制度であった。つまり供出と配給が基本となり、米の自由流通はなくなり、米価はすべて公定された。買入価格、売渡価格は、それぞれ生産費と家計費、それに物価その他の経済事情を参酌して決めることになっていた。しかし統制であるため、両価格の関連はいちおう断たれ、二重価格制となった。供出価格についても、生産者は地主より有利に決められた。生産者米価はいちおう生産費主義をとっていたけれど、厳しい食糧不足のなかであったから、米価は全体として抑制的であった。
 第二次世界大戦後の食糧不足時代にも食糧管理法によって米価は抑制されていた。生産者米価はインフレのなかでパリティ方式で決められた。このパリティ方式は、その内容はいろいろと変わったが、いちおう1959年(昭和34)まで続けられた。1951年までのパリティ方式は、1934~1936年平均を基準年次としたものであったが、需給実勢に対し安かったため、インフレの激しかった時代には、追加払いという制度も採用され、供出に対してもさまざまな形の奨励金がつけられた。それでも闇米(やみごめ)が横行し、都市の闇値は1946年6月には公定の24倍にもなった。消費者も、配給量が少なく、しかもそれも完全には行われなかったため、闇米に頼らざるをえなかった。食糧事情が好転し強権的供出が困難になると、各種奨励金による事実上のパリティ価格引上げが行われたが、1953年ごろまでは国内米価は国際価格を下回っており、米価はなお抑制的であった。1955年の米の大豊作を転機として、米の需給は緩和し、国際価格も下がったため、日本の米価はしだいに国際的に割高になる一方、国内では闇米価格が下落した。また日本経済の復興と高度成長の開始にもかかわらず、物価は安定していたので、パリティ米価が上がらなかったため、都市勤労者と農民との所得格差は拡大し、米価引上げの要求が農民の間で強まった。これに対して採用された新しい生産者米価決定方式が、生産費・所得補償方式である。これは、前3か年平均の米生産費をもととし、このうち物財費は当年価格、自家労賃分は都市勤労者賃金で評価替えした生産費に基づいて生産者米価を決定する方式である。1960年から採用されたこの方式によって、高度成長による都市勤労者賃金の上昇とともに、生産者米価も引き上げられた。ことに1970年代からの米過剰が発生する以前の米不足基調の下では、生産者米価引上げの農民の要求が強く、この方式の枠内で年々米価が上がるような計算方法が採用されて、生産者米価は急速に引き上げられた。
 消費者米価と政府売渡価格は、戦後1947年産米から、生産者価格に経費を加えたコスト価格が採用された。この独立採算時代は数年であったが、生産者米価算定方式としての生産費・所得補償方式の採用に伴って消費者米価は生産者米価との関連を失い、二重米価制が定着した。そして生産者米価引上げに対し、消費者米価の引上げが遅れる傾向が続いた。このため両者の関係は、1963年から政府売渡価格が生産者価格(政府買入価格)より安い、いわゆる逆ざやになり、1986年産米に至るまで続いた。消費者米価の決定方式は前述した家計米価であったが、勤労者所得の上昇が続くなかでは、この方式は消費者米価上昇を抑える役割を果たせず、消費者米価引上げ抑制は消費者への政治的配慮によるものであった。逆ざやの発生の結果、食管会計の赤字が発生、増大した。そして食管赤字の問題は米価政策の重要な要素となった。
 1961年からの農業基本法の下での農業政策は、かならずしも米価引上げを指向しはしなかったが、所得均衡を求める農民側の要求がもっぱら米価引上げに集中し、その要求を与党の農林議員の力を借りて通したために、米価は相対的に高くなり、米は農民に有利な作目となった。米生産は増加し、1969年以来米過剰となった。米過剰が発生してから、政策当局は生産者米価を抑制的に決めようとし、生産費・所得補償方式のなかでの計算方法を、米価をなるべく引き上げないようにと変えたため、米価は1968年以降1972年までほぼ横ばいに推移した。しかし1972年の食糧危機による国際価格の急騰、1973年の石油危機によるインフレ、そして同じころの一時的な米過剰の解消もあって、生産者米価引上げへの農業団体の要求が強まり、1973~1975年に生産者米価は大幅に引き上げられた。しかし米過剰が再発し、国際食糧需給も緩和したため、以後生産者米価は抑制された。
 消費者にとっては1960年代以降、米需給の緩和とともに、それまでの高い闇米はなくなった。しかし消費者の良質米需要の増大とともに、自由米という形での良質米の闇流通が発生し、配給米との間に価格差が生まれた。配給制度の枠内でも特選米などの方式での対応は行われたが、それも限界があり、結局、1969年から自主流通米制度が発足し、1972年4月からは小売価格について物価統制令の適用が廃止されるに至った。1960年代以降、供出・配給という統制としての食管制度はまったく崩れていたのであり、事実上の統制撤廃が進んでいた。1981年の食管法改正はこれを追認したものであり、これによって新しい米価の体系が生まれたのである。[持田恵三]
改正食管法
1981年に改正された食管法の下での米価は、大きく分けて政府米に関するものと自主流通米に関するものとがあった。政府米の価格は、生産者からの買入価格と政府の卸商への売渡価格とが、毎年米価審議会の議を経て決定された。1994年(平成6)産米については、前者は60キログラム当り1万6392円(玄米、1~5類、1~2等平均、包装費込み)であり、後者は1万8123円(同前)であった。1~5類は産地・品種による銘柄の区分で、1類から5類に至る順に品質が落ち、価格も差がつけられる。等級も1~3等があり、1等から3等に至る順に品質が落ち、価格差がつけられている。
 生産者米価の決定方式は、1960年から生産費・所得補償方式がとられてきた。しかし、この方式は米の需給状態、財政事情によって価格決定が大きく左右されるのが実情であり、1977年以後1982年まで、生産者米価はほとんど引き上げられていないし、1984~1986年は据置きであった。1987年は生産費が大幅に下がったために、31年ぶりに約6%引き下げられた。1988年も4.6%の引下げであった。以後、食糧法(1995年施行)まで、生産者米価は据え置かれた。政府売渡価格の決定方式は家計米価方式による。家計米価方式とは、ある基準年からの家計の伸び率の範囲に、消費者米価の上昇率を抑えるように、政府売渡価格を決める方式である。家計の伸び率が10%なら、売渡価格の値上げ幅も10%以内となる。この方式は上限があるだけでかなり自由度が大きく、もっぱら財政事情によって値上げが決められるようになった。しかし政府買入価格の引下げに伴って、政府売渡価格は買入価格より若干多めに引き下げられた。
 消費者米価は自由であって、小売商に任されているが、政府米を原料とした標準価格米を常置することになっており、その価格は政府売渡価格に一定のマージンを加えたものが指導価格となっている。1994年の標準価格米価格は、地域によって原料の構成が異なるので差があるが、精米10キログラム3850円が基準である。このほか、より低質で安い米として徳用上米があったが、その数量は少なかった。
 自主流通米の価格(建値)は自由であるが、自主流通米価格形成機構(1995年に名称変更し、自主流通米価格形成センターとなり、2004年には全国米穀取引・価格形成センターとなる)での入札により決まる。この建値は集荷業者(ほとんど農協)が卸売業者に売り渡す価格であり、生産者の価格は、これから発地経費を差し引いたものになる。しかし当時の自主流通米制度では、政府米の逆ざやが大きいので、その差を埋めて流通を円滑にするために種々の助成措置がとられ、販売促進費、良質米奨励金などが生産者や流通担当業者に支給されていた。だから生産者の手取り額は、これらのうち生産者に還元されるものを加えた額となる。自主流通米の建値は、1994年産の最高は新潟産コシヒカリであり、60キログラム当り2万5866円で、政府米売渡価格よりも7743円高い。自主流通米の消費者価格は自由であり、地域により、小売店によりまちまちであるが、自主流通米を原料とした上米で全国平均10キログラム当り6052円(1994年10月)であった。[持田恵三]
食糧法
1994年には食糧管理法にかわり、「食糧法」(平成6年法律第113号、正式には「主要食糧の需給及び価格の安定に関する法律」)が制定された。その下では主として流通する米が自主流通米のため、米価は自主流通米の価格となる。この価格は従来どおり、自主流通米価格形成センターにおける入札により決まる。ただし価格形成には一定の変動幅が設けられており、完全に自由ではない。しかしセンターに上場される米は流通量の25%であり、ほかはセンターで形成された価格を基準として相対で取引される。この点は従来とあまり差はない。食糧法のもとで政府米のもつ意味は小さくなったが、自主流通米間の格差は拡大傾向にある。
 1960年の生産者米価決定における生産費・所得補償方式の導入以来の米価政策は、国際価格より高く国内米価を支持し、生産者を保護するものであり、1955年ごろまで国際価格と差がなかった国内米価は、その後円高の影響も加わって、1989年にはアメリカと比べて生産者米価で7倍、消費者米価で2倍以上にもなった。その意味では米価政策は、もっぱら生産者のためのものであり、農業保護政策の中核であった。しかし1987年より米価は下落傾向にあり、稲作農家の経営には引き合わない水準になっている。市場原理が導入された食糧法施行以後もこの傾向は続き、生産費の安い大規模経営農家の経営をも厳しくさせている。[持田恵三]
『中沢辨次郎著『日本米価変動史』(1933・明文堂) ▽『日本食糧政策史の研究』全3巻(1951・食糧庁) ▽『食糧管理史』全10冊(1969~72・食糧庁) ▽近藤康男編『日本農業年報第17集 食管制度――構造と機能』(1968・御茶の水書房) ▽近藤康男編『日本農業年報第28集 食管――80年代における存在意義』(1980・御茶の水書房) ▽大内力編『日本農業年報第42集 政府食管から農協食管へ』(1995・農村統計協会) ▽持田恵三著『日本の米――風土・歴史・生活』(1990・筑摩書房) ▽日本農業研究所編『食糧法システムと農協』(2000・農林統計協会)』

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世界大百科事典内の米価の言及

【買米】より

…江戸幕府が富裕町人に市中の米を買い上げさせることで中央市場の米価上昇を図った政策。1731年(享保16)から1810年(文化7)まで大坂で6度,江戸で1度の実施が確認できる。…

【食糧管理制度】より


[成立]
 一般的には,国家による食糧管理を要請するのは食糧の供給不足・価格高騰か供給過剰・価格暴落の発生である。食管法の起点となった米穀法が制定された1921年は米騒動の4年後ではあったが,一方では国民1人当り米消費量のピークへの到達と,他方では国産米生産力増強とともに,植民地朝鮮・台湾での米移出力の強化によって,供給過剰による内地米の価格低下が問題とされ,政府による米穀の売買・加工・貯蔵,輸入税の増減,輸出入の制限等を通じて,米穀の数量調節を行い,米価暴落の防止が目指された。これ以後,昭和農業恐慌対策としての31年の米穀法改正(米穀輸出入の許可制,安定価格帯制度の導入),33年の米穀統制法(最低価格による政府の無制限買入義務),36年の米穀自治管理法(過剰米の市場供給制限のための産地貯蔵)など,38年までは米穀の市場流通を前提とした間接統制を通じた過剰対策が主眼となっていた。…

【張紙値段】より

…その換算相場を支払のつど,江戸城内の中ノ口に張紙したところから,この名があり,値段の表示は米100俵(35石)当りの金額で行われた。この相場は江戸市中の米価に準拠しているが,財政・米価・旗本救済などの諸点をも考慮して決定された。年貢石代納(こくだいのう)の換算値段は,一般に近在の米市場の相場を基準にするが,関東と甲州の一部の幕領では,張紙値段に一定の増値段を加えて使用している。…

【パリティ指数】より

…所得についてのパリティを保障するような指数を所得パリティ指数という。 米価については1960年産米から生産費・所得補償方式が採用され,麦価についても88年からパリティ指数は廃止され,生産費に基づく方式が採用された。そのほか大豆,ナタネ,テンサイなどの行政価格を決定する際,その資料のひとつとして農業パリティ指数は用いられる。…

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