石田一松(読み)イシダ イチマツ

新撰 芸能人物事典 明治~平成 「石田一松」の解説

石田 一松
イシダ イチマツ


職業
演歌師 政治家

肩書
衆院議員(民主党)

生年月日
明治35年 11月18日

出生地
広島県 安芸郡府中村(府中市)

学歴
法政大学文学部法科〔昭和2年〕卒

経歴
3歳の時に両親が離婚。その後は父に養われるが、父が米相場に失敗して没落し、少年時代には4人の継母が入れ替わるなど複雑な家庭環境に育った。小学校時代から腕っ節が強く、明道中学を受験した際には入試の邪魔をしに来た上級生の相撲部員6人を叩きのめしたといわれ、入学後は相撲部で活躍。傍ら音楽を好み、在学中からバイオリンを弾きはじめた。同校はバンカラの気風が強かったため喧嘩に明け暮れるようになり、遊郭で無法者と決闘したことが露見して退学。そのため不良少年のレッテルを貼られて郷里に居られなくなり、大正10年上京。当初はレンズ工として働くがすぐにクビになり、添田唖蝉坊知遇を得、流しの演歌師となった。以後、自身や唖蝉坊の作った曲に時事を批判した自作の歌詞を乗せ、バイオリンを演奏しながら歌った。12年の関東大震災後に「被服廠哀歌」でレコードデビュー。14年震災からの復興を期して唖蝉坊の息子・添田さつき(知道)とともに「復興節」を作った。その後、新聞漫画の唖蝉坊作曲の「のんき節」や、当時人気があった新聞漫画にヒントを得た自作の「のんきな父さん」などがヒットし、人気を確立。一方で苦学しながら昭和2年法政大学を卒業。5年吉本興業専属となり、“小唄法学博士”の看板を浅草万成座に掲げて初舞台を踏み、映画やラジオにも出演して売れっ子となった。他のヒット作に「酋長の娘」「いやじゃありませんか」などがある。またヒット曲「噫中村大尉」の歌手・藤波笑声は彼の変名だといわれている。12年には横山エンタツ、ミスワカナらと芸人による慰問団のわらわし隊を組織し、中国戦線で兵隊の慰問に当たった。また上京してからは労働運動などにも取り組み、戦後、21年に一人一党の日本正論党から衆院選東京5区に立候補して当選。以後、国民協同党、改進党に所属し、28年連続4回衆院議員を務めた。この間26年には当時所属していた民主党の党議に背いて日米安保条約・対日平和条約の批准に反対し、“全面講和”を主張して脱党したことで話題となった。また代議士でありながら芸能活動を続け、昼は国会、夜は寄席に出勤したが、30年の総選挙で落選後、胃癌で死去した。著書にタレント本の嚆矢ともいわれる「のんき哲学」がある。

没年月日
昭和31年 1月11日 (1956年)

伝記
闘った「のんき節」―タレント議員第一号・演歌師石田一松さらば、愛しき芸人たち政治家 その善と悪のキーワード 水野 喬 著矢野 誠一 著加藤 尚文 著(発行元 文芸社文芸春秋日経通信社 ’02’89’86発行)

出典 日外アソシエーツ「新撰 芸能人物事典 明治~平成」(2010年刊)新撰 芸能人物事典 明治~平成について 情報

新訂 政治家人名事典 明治~昭和 「石田一松」の解説

石田 一松
イシダ イチマツ


肩書
衆院議員(民主党)

生年月日
明治35年11月18日

出生地
広島県

学歴
法政大学文学部法科〔昭和2年〕卒

経歴
レンズ工員を経て上京、苦学しながら法政大学を卒業。在学中に添田啞蟬坊らの東京倶楽部に入って演歌師になる。自作の歌詞も多く代表作「ノンキ節」は大正12年ごろの作。昭和5年吉本興行の専属となり、法学士の看板を浅草万成座にあげて初舞台。バイオリン片手に「ノンキ節」がヒット、映画やラジオに出演した。他のヒット作に「のんきな父さん」「酋長の娘」「いやじゃありませんか」などがある。戦後は21年に一人一党の日本正論党から衆院選東京5区で当選、その後、国民協同党、改進党に所属、連続4回当選。26年民主党の党議に背き日米安保条約・対日平和条約の批准に反対、“全面講和”を主張して脱党。のち代議士の肩書で寄席などに出演した。著書に「のんき哲学」がある。

没年月日
昭和31年1月11日

出典 日外アソシエーツ「新訂 政治家人名事典 明治~昭和」(2003年刊)新訂 政治家人名事典 明治~昭和について 情報

20世紀日本人名事典 「石田一松」の解説

石田 一松
イシダ イチマツ

昭和期の演歌師,政治家 衆院議員(民主党)。



生年
明治35(1902)年11月18日

没年
昭和31(1956)年1月11日

出生地
広島県

学歴〔年〕
法政大学文学部法科〔昭和2年〕卒

経歴
レンズ工員を経て上京、苦学しながら法政大学を卒業。在学中に添田啞蟬坊らの東京倶楽部に入って演歌師になる。自作の歌詞も多く代表作「ノンキ節」は大正12年ごろの作。昭和5年吉本興行の専属となり、法学士の看板を浅草万成座にあげて初舞台。バイオリン片手に「ノンキ節」がヒット、映画やラジオに出演した。他のヒット作に「のんきな父さん」「酋長の娘」「いやじゃありませんか」などがある。戦後は21年に一人一党の日本正論党から衆院選東京5区で当選、その後、国民協同党、改進党に所属、連続4回当選。26年民主党の党議に背き日米安保条約・対日平和条約の批准に反対、“全面講和”を主張して脱党。のち代議士の肩書で寄席などに出演した。著書に「のんき哲学」がある。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

改訂新版 世界大百科事典 「石田一松」の意味・わかりやすい解説

石田一松 (いしだいちまつ)
生没年:1902-56(明治35-昭和31)

大正・昭和期の演歌師。広島県に生まれ,苦学して法政大学を卒業。在学中に演歌師となり,美声で人気を集めた。1932年東京浅草の万成座に〈インテリ・時事小唄・法学士〉の看板を掲げ寄席芸人となったが,その代表作〈ノンキ節〉などによる辛辣な時局風刺のため,しばしば官憲に出演停止を命じられた。46-53年衆議院議員に当選(民主党に所属),51年平和・安保両条約に反対票を投じ,同党を脱党した。著書に《のんき哲学》(1946)がある。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「石田一松」の意味・わかりやすい解説

石田一松
いしだいちまつ
(1902―1956)

演芸家、政治家。広島県出身。上京して演歌師となり、苦学して1927年(昭和2)法政大学を卒業。1932年吉本興業に入り「インテリ時事小唄(こうた)」の看板を掲げ、世相を風刺した「のんき節」をもって舞台に立つ一方、映画にも出演した。1946年(昭和21)以降衆議院議員に4回当選、民主党代議士として活躍、後世いうところのタレント議員の草分けになった。自著に『のんき哲学』(1946)がある。

[向井爽也]

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「石田一松」の解説

石田一松 いしだ-いちまつ

1902-1956 昭和時代の演歌師,政治家。
明治35年11月18日生まれ。昭和7年吉本興業にはいり,「インテリ時事小唄(こうた)」でうりだす。「ノンキ節」で世情を風刺,官憲の圧迫もうけた。ほかに「ノンキな父さん」「いやじゃありませんか」などが知られる。21年衆議院議員(当選4回,改進党)。昭和31年1月11日死去。53歳。広島県出身。法大卒。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

367日誕生日大事典 「石田一松」の解説

石田 一松 (いしだ いちまつ)

生年月日:1902年11月18日
昭和時代の演歌師;政治家。衆議院議員
1956年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の石田一松の言及

【演歌】より

…レコード,トーキー,ラジオの普及しはじめた昭和初期,街頭の演歌師はついに消滅した。最後まで健闘したのは石田一松だが,《時事小唄》と銘打った《のんき節》も,寄席の高座から訴えかけるにとどまった。 1960年代以降,演歌の持つ硬派的な一面はフォークソングや反戦・反核の歌に受け継がれた。…

※「石田一松」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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