最も一般的な店の標示で,近世から現代にかけて,日本・中国・欧米諸国を主とし,広く全世界各地で発達したものである。日本では看板,中国では招牌(チヤオパイ)・望子(ワンズ)または幌子(ホワンズ)と呼ばれ,英語ではサインボードsignboard,あるいはサインsign,フランス語ではアンセーニュenseigne,ドイツ語ではツァイヘンZeichenと呼ばれている。看板は広告塔・はり紙などとともに屋外広告物に含まれ,常時または一定の期間継続して屋外で公衆に表示されるものとされている。看板の表示内容の主体となるのは,店名・業種名・商品名であって,これを示すために文字を用いるのが現代では最も多いが,店をあらわすシンボルやマーク,業種をあらわすシンボル(たとえば理髪店の赤白だんだらの棒,酒造店の杉玉),販売する商品をあらわすシンボル(たとえば眼鏡屋の眼鏡の絵や模型)など,文字によらない方法もいろいろ見られる。また文字による場合も独特のデザインによるロゴタイプ(たとえばコカ・コーラの文字)を用いて,視覚的印象を強める方法も多数認められる。
看板の様式
看板の形態は大きく分類して平面と立体がある。看板とかサインボードという言葉には板の意味があるが,立体のものも機能的には板による看板とまったく同じ意味をもっているので,立体のものも併せて看板と呼ぶのが一般的である。さらにこれを形式や構造のうえから分類すると,下げ看板・屋根看板(または壁面固定看板)・突出看板・置看板・建看板・絵看板などがあり,特殊なものとして,ネオンサイン,立看板,野立看板などがある。
下げ看板というのは,江戸・明治の日本では軒下に道路と直角に吊り下げる板状の看板の形式,欧米では建物から道路に突出した腕木にやはり道路と直角に吊り下げる形式である。屋根看板は,日本ではもと屋根の上に支柱をつくって看板を吊り下げる形式であったが,明治以後道路に面して屋根の上に横長の看板を固定する形式になった。欧米では腕木に吊り下げる形式と並んで,建物の外壁にはりつける形式が行われている。現代の日本では洋風建築にこの形式を用いるものと,和風建築の正面を看板で全部おおう形式が多い。突出看板は,建物の壁面に平面または立体のものを道路と直角に固定する方法である。置看板というのは,昔の日本では衝立状の看板を店の間の畳の上に置く形式のものを呼んだが,現代では,店の前の道路に置く小型の平面または立体の形式のものをいう。内部に照明を設ける場合が多い。建看板は,江戸時代に店の前の道路に柱を立てて看板を掲げた形式で,欧米の居酒屋看板にもこの形が見られる。絵看板は江戸初期から見世物・劇場に用いられ,今日でも映画館で行われているが,最近アメリカを中心として日本でも,絵に代わって巨大な写真をはる方法が急激に増えている。
看板の歴史
日本
日本の看板の起源として,記録的には《令義解(りようのぎげ)》(833)に,市(いち)の各見世が標識を出すことを定められたという記述があるが,絵図的資料としては,中世の絵巻物に看板類は見られず,室町末期から江戸初期にかけてようやく認められる。早い例として,上杉家蔵《洛中洛外図屛風》(16世紀中期)に描かれた烏帽子屋(えぼしや)に烏帽子の絵の看板,筆屋に筆の絵の看板が見られる。当時はそれぞれ自家のシンボルを描いたのれんを入口にかけ,看板には商品の絵を描くのが一般的傾向であったが,店内の商品が一目で見られるので,商品や業種を示す必要が少なく,看板を用いる店はごく一部に限られていた。上記以外,桃山時代から江戸初期にかけて多数描かれた《洛中洛外図》その他の風俗図や,川越喜多院蔵《職人尽絵》などに描かれた看板には,ろうそく屋・数珠屋・櫛屋・人形屋・扇子屋・髪結床(はさみ・櫛の絵)・占師(易の卦の絵)・両替屋(小判の絵)などが認められる。このころの看板はごく小型の矩形または絵馬型である。江戸初期の看板で特殊なものとして,大型の絵看板がある。これは見世物に用いられたもので,寛永期(1624-44)ごろの静嘉堂蔵《四条河原図》や,元禄期(1688-1704)の《四条河原図巻》に,ヤマアラシ・クジャク・虎・熊などの見世物の絵看板が描かれている。
実物や立体のつくりものを看板として用いることも,上記の看板と平行的に行われている。《洛中洛外図》その他江戸初期の風俗画をはじめ,江戸中期から明治にかけての多くの文献・絵画や,現存の実物によると,この種の看板としては,酒屋の杉玉,薬屋・砂糖屋の薬袋,ようじ(楊子)屋の猿の置物,そろばん屋・扇子屋・眼鏡屋・櫛屋・きせる屋・下駄屋・ろうそく屋・筆屋・数珠屋・刃物屋などの大型模型,紙屋の大福帳形,菓子屋の金平糖(こんぺいとう)形などがある。酒屋の杉玉は中国やヨーロッパの居酒屋で目印としたブッシュの束と共通性があるが,杉を用いるのは日本だけである。江戸初期からの絵図や記録に見られるが,初めは杉の小枝を束ね,なかを結わえた形が一般的で,その後球形が多くなり,今日でも各地の酒造店で球形の杉玉を用いている。薬屋で大型の薬袋形を用いるのは,江戸初期から明治に至るまで一貫して続いている。砂糖はもと薬屋で売っていたので,薬屋がこの形に砂糖の文字を書いて看板とし,明治になって,砂糖屋がこの形を用いていた。ようじ屋(歯ブラシ屋)が猿の置物を用いたのは,真白(ましら)という語呂合せの洒落である。
江戸中期から明治にかけて,看板の主体になったのは,大型縦長の下げ看板である。これは厚いケヤキの板でつくり,金具をつけて軒下に吊り下げ,夜間店をしまうときははずして内に入れた。現在でも,飲食店などで閉店のことを〈看板〉というのはこのためである。白木に墨で文字を書いたものや,漆塗りのもの,金箔を施した豪華なものがある。また平面だけでなく,浮彫を施したり,立体のものや,金属その他の材料をはりつけたものもある。下げ看板はきせる屋・ろうそく屋・櫛屋・三味線屋・筆屋・刃物屋・釣針屋などで,その商品の形を描いたものが多い。またしょうゆ屋・酢屋では,板を瓶の形に切りぬいて看板とした。《人倫訓蒙図彙(じんりんきんもうずい)》(1690),《日本永代蔵》(1688)などにその図があり,現在でも京都その他に見られる。店の間に置く衝立型の置看板は,《南都名所集》(1675)のまんじゅう屋,《彩画職人部類》(1784)の筆屋の図などに描かれ,現在金沢の筆屋文華堂,滋賀県柏原の艾(もぐさ)屋亀屋左京などに使われている。明治になって東京銀座の店舗が洋風化されたほかは,全国の商店の構えは江戸時代とほとんど変わらなかったが,屋根に正面向け横長のペンキ塗看板が用いられるようになり,洋服・靴・時計・洋品などの店では,ローマ字や英語の看板が現れた。ペンキ塗りの看板は大正・昭和としだいに大型化して宣伝的傾向が強まり,都市の景観を著しく損ねる結果となったが,最近は商店建築の高級化と相まって,デザイン的に整理される傾向にある。なお上記とは別に,江戸時代武家の中間(ちゆうげん)や小者などが使用した仕着せで,主家の定紋や記号を大きくつけた衣類が〈看板〉と呼ばれた。
執筆者:高橋 正人
歌舞伎興行の看板
歌舞伎の創始期は劇場も常設ではなかったので劇場の存在を知らしめること自体が一つの宣伝でもあった。仮小屋式の劇場の正面入口の上部に高くこたつやぐらのような方形の場所を設け,これを〈櫓(やぐら)〉と呼んだ。城郭における見張所でもあり戦の拠点でもあった櫓から発想されたものと思われ,興行宣伝のポイントで,その劇場が公許の興行場であるという印でもあった。そこへ興行主の定紋を染め抜いて張り巡らしたが,これなどは看板としての効用も果たした。この櫓の下に劇場名を記した櫓下看板を,その横に興行主の名,出演者中の主要メンバーの連名,演目などを板に記して掲げた。こうした文字看板から,やがて演目を絵で示す絵看板が現れる。すでに享保期(1720年代)の江戸中村座を描いた屛風絵に見えているのでこのころには行われていたことは確実である。これに一定の形式が生じたのは寛政(1789-1801)のころと考えられる。当時の絵によると江戸の劇場正面に見える看板のうち文字を主にしたものでは,木戸口に腰高の台を置きその上へ2階軒までも届く大名題(おおなだい)看板が目だつ。これは総タイトルを記しその上方に狂言作者が作った韻文調の主題説明文(語り)が記されている。この左の1階の屋根の上には幕ごとの題名とテーマを記した小名題(こなだい)看板が並べられ,さらに左には配役を記した看板が見える。右の方には浄瑠璃看板があり,これには浄瑠璃の題名,演奏者名が記されている。さらに興行趣旨を記した口上看板や特殊な招き看板などがある。このほかは1階の屋根上から2階軒下へ届く大きさの絵看板が並んでいる。こうした江戸大劇場の形式が明治まで続いたことは1878年(明治11)に開場した東京新富座で実証される。しかし89年開場の東京歌舞伎座では,入口左手に屋根付きの掲示場を設けてここに絵看板を並べた。現在の歌舞伎座も入口左右の掲示場を使用している。江戸では絵看板の下絵は立作者が書き,伝統的に看板絵を担当してきた鳥居派の絵師が描いてきた。文字については江戸が勘亭流,関西は東吉流という書体を用いた。以上のような看板のほかに立体的な招き看板も享和期(1800年代初頭)に現れた。現代では屋根から地上へ長い幅広い布に記す形も用いられる。今でも京都南座の12月顔見世に主な俳優の紋と名を記した庵看板は冬の京都の風物詩となっている。
執筆者:林 京平
中国
中国の看板は招牌と望子の2種類に分けられる。招牌は普通の文字看板のことで,近世に至って普及したと思われる。望子は幌子ともいい,商品の現物や模型,あるいはそれを象徴したもの,意匠化したもの。たとえば,帽子屋は帽子,うどん屋はうどんの模型である細く切った紙の房,薬屋は四角や三角の膏薬紙の中に丸く薬をつけた形の板などを店頭に吊り下げる。望子は元来は店頭に掲げる幟(のぼり)旗のことで,唐・宋代酒店は青い布の旗を掲げたらしく,望子はとくに酒店の旗〈酒旗〉〈酒帘(しゆれん)〉を指したようである。南宋の《東京夢華録》に〈中秋節の前,各酒店ではみな新酒を売り出し,……彩色した旗竿に酔仙の錦旗を掲げる。市民が争って飲むので,正午すぎには軒並み酒が尽き,望子をひき降ろす〉とある。当時酒瓶や瓢(ふくべ)や草ぼうきを望子にする酒店もあった。のちには金属製の酒壺を吊るす店が多くなった。《韓非子》外儲説右上に〈宋人に酒をうるものあり,……酒をつくることはなはだ美(うま)く,幟を懸くることはなはだ高し〉とあるから,酒店が旗を看板にする習慣は漢以前からあったことになる。
酒店以外の望子は12世紀ころから流行しはじめたらしい。近世において,江南地方ではもっぱら招牌を用い,北方では招牌のほかに望子が多かった。比較的文化程度が高かった南方に対し,北方は長い間北京にモンゴル族,満州族などの異民族王朝の都が置かれたためであろう。軒先に望子を吊るすために突き出た竿や,望子に付属した装飾物には,竜頭,桃,レンゲ,コウモリ(蝙蝠),銭,ヒョウタン,双魚など吉祥あるいは厄除けの彫刻や図柄が見られる。望子の下端につけられた赤い布片も縁起物であり厄除けの意味がある。近年識字率の向上とともに,望子は急速にすたれ,現在ではすでに姿を消し,商店の看板はすべて招牌となった。なお,江戸時代の初期,たとえばうどん屋,タバコ屋などで中国の望子の模倣が行われた形跡がある。
執筆者:鈴木 健之
西洋
ヨーロッパやアメリカにおける近世の看板の発達は著しいが,古代のエジプト・中近東・ギリシアなどについては,文献的資料,実物資料ともにきわめて少なく,ほとんど知ることができない。古代エジプトでは商売を示す標章があったという説がある。また古代ローマでは市の中央広場のまわりに居酒屋があって,雄鶏の絵が描いてあったという説や,店の看板からその町の名がつけられたという説があり,すでに看板があったことが想像される。ローマ時代をしのばせるポンペイの遺跡のなかに,店の壁に描いたり,レリーフにした業種サインらしいものが認められる。たとえばヤギ(牛乳屋),ひき臼をひくロバ(パン屋),ブドウの房とバッカス(酒屋),瓶をかつぐ男(香水屋,当時死体処理に瓶に入った香水をふりかけた)などである。業種の看板はローマ時代から中世,現代へとひきつづき行われているが,とくに居酒屋のブッシュはよく知られている。中世の風俗画によると,床屋(腕木に盆をかけて突出した形),居酒屋(ブッシュのほか,ジョッキと大皿)などが多い。看板は,初めは業種のシンボルが多かったが,居酒屋では,領主の紋章とか,白鳥・ライオン・雄鹿などを店のシンボルとして看板に描くことが多くなった。また一般商店でも,同じ業種が増えてくるとともに,固有のシンボルを用いることが多くなった。しかし文盲が多かったため,店名を判じ絵であらわすようになった。たとえばCoxという名前を2羽の雄鶏(コックス)であらわすような方法である。
18世紀ごろから看板がますます盛んになった。ヤコブ・ラーウッド《看板の歴史》(1868)に,1700年ごろのロンドンの看板68種の図があるが,これには王の紋章や肖像・ベル・ドラゴン・象・ハープ・白馬・クジャク・船・角笛など,種々の形が店のシンボルとして用いられている。さらに雄牛と口・鯨とカラス・シャベルと長靴など,奇妙な組合せの看板がこのころ流行したが,人目をひくのが目的であったと思われる。中世には看板のシンボルが町の目印にされていたが,しだいに文盲が減り,19世紀ごろから文字の看板が多くなったが,今日までひき続いて用いている店も多い。ロンドンのバークレーズ銀行(イナゴ),王立スコットランド銀行(セロを弾く猫)などはその例である。とくに居酒屋(イン,タバーン)・宿屋では,現在でも各種のシンボルが使われている。居酒屋は中世の巡礼宿がもとで,看板に僧院の紋章・教会のベル・聖人像などが多く,聖ゲオルギウス(聖ジョージ)はとくに多い。また王や領主との関係を示すライオン(英国王)・白鹿(リチャード2世)・紋章・王冠などもよく用いられている。その他,看板の一種として立体彫像がある。タバコ屋にムーア人やインディアンの彫像が広く欧米で用いられたが,19世紀のアメリカでは,ボストンの船具店の船長像をはじめ,タバコ屋や居酒屋その他に,アンクルサム・黒人・水夫など種々の彫像が用いられた。
今後の動向
従来,看板は建築と別個に考えられ,看板業者によって後から付設されるのが普通であった。しかし店舗・事務所・工場等の建築の現代化に伴い,建物自体が看板に代わる独自性を発揮するとともに,シンボルマーク・社名・各種案内表示等が建築設計の重要な要素として,環境を含む建物全体の〈サイン計画〉に組み込まれ,コミュニケーションの機能と美的効果に適合するように考えられる傾向が増大している。また明治前の日本の都市では,立ち並ぶ商家と看板・のれんに一定の秩序と統一があり,ヨーロッパの諸都市でも,建物の高さや看板の形式に統一があったが,20世紀になって,屋外広告の規模の巨大化や形式の多様化が,都市の秩序を破壊する傾向があった。これに対して,最近一つのビルに多数の店舗が入る状況や,商店街が地域全体の独自性を希求するなど,看板や表示を一定の形式に統一し,その範囲内で各店舗が個性を発揮する形で,環境全体との関連においてサイン・デザインを考える傾向が見られる。
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執筆者:高橋 正人