磐城平城下(読み)いわきたいらじようか

日本歴史地名大系 「磐城平城下」の解説

磐城平城下
いわきたいらじようか

夏井なつい川右岸にあり、南の防御はしん川によった。慶長七年(一六〇二)岩城氏に代わって入封した鳥居忠政による縄張りで、同八年から一二年にかけて築かれ、その後内藤氏の時代に拡張・整備された。鳥居氏は初め岩城氏の居城であった飯野平いいのたいら(大館)に入ったが、土地狭小で堅固でなかったので、飯野八幡宮の鎮座していた物見岡ものみがおか磐城平城を築くため、飯野八幡宮を八幡はちまん小路の現在地に移し、八幡小路にあった紺屋こうや町は現在地に移されたと伝える。城と城下中心部は北目きため村に属し、東の町分まちわけ村、南の十五町目じゆうごちようめ村、西の長橋ながはし村にかけて広がっていた。鳥居氏は城の西と南西に侍屋敷、東に仲間屋敷と足軽屋敷、南西大館おおだて地区に寺町南方に職人町と町人町を配置した。この基本的組合せは近世を通じて変わらない。町人町は町目ちようめから三町目に区画されたという。新城築城にあたり、城の北西の大沼を堰止めようとしたが成功せず、九五歳の丹後なる者を人柱にしてようやく完成した。以後この沼を丹後たんご沢と称したという。丹後の孫弥蔵は祖父の功により山目付に登用されたが、賄賂を求め農民を虐待した。元和八年(一六二二)農民たちは弥蔵に報復しようとしたが、弥蔵は逃亡。同様な虐待をしていた下高久しもたかく村の佐藤隼人に矛先がむけられ、九月二四日隼人一族一八人を焼殺。これに対し家老高須弥助は一揆勢四八人を捕らえ、同村内で斬首した。これを高久村騒動と称する。内藤氏の時代になり、城下町はより整備された。享保年間(一七一六―三六)作製の平城古図(山崎家蔵)によれば、重臣屋敷が城内六間門ろつけんもんに三軒、揚土あげつちに六軒あり、城北の侍屋敷は二〇〇軒余、北西の寺町には約五〇ヵ寺があり、東方の仲間ちゆうげん町・鷹匠たかじよう町・大工だいく町・番匠ばんじよう町・白銀しろがね町などに下級武士の住居一五〇軒余、しん町・たつ町・久保くぼ町などに足軽屋敷一〇〇軒余、城南の紺屋町材木ざいもく町・鍛冶かじ町・とぎ町・長橋町などに職人二〇〇軒余、一町目から五町目まで延びた本町通は商人町で、二五〇軒余であった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報