神崎・神崎宿(読み)かんざき・かんざきのしゆく

日本歴史地名大系 「神崎・神崎宿」の解説

神崎・神崎宿
かんざき・かんざきのしゆく

川・猪名いな川・神崎川の合流点付近に位置し、神崎川西岸の現神崎町を遺称とする。よど川と三国みくに(神崎川)の間が延暦四年(七八五)開削され連絡したことにより(→神崎川、淀川から分岐する上流の江口えぐち(現大阪市東淀川区)とともに、瀬戸内海航路の出発地点として京都と西国を結ぶ水陸交通の要衝となり発展した。

〔古代〕

摂津国風土記」逸文(万葉集註釈)に、神功皇后が三韓出兵のため筑紫に赴こうとしたとき、「川辺の郡の内の神前の松原」に神々を集め祀ってその加護を願ったとあり、「住吉大社神代記」には「神前審神浜」の四至を「限東江尻、南限川、限西為奈河、限北公田」とし、熊襲二国を討伏せんとしたとき、神々の集まることを祈ってこの浜を住吉神に寄進したとある。一般にこれらの「神前」を神崎と同一とみているが、「住吉大社神代記」の神前審神浜は猪名川の東岸にあったように記している。天平勝宝八歳(七五六)一二月一七日の摂津国河辺郡猪名所地図写(尼崎市教育委員会蔵)には、神崎付近は深く湾入した大阪湾の入江として描かれ、下流域は未だ形成されていなかったことがうかがえる。承暦三年(一〇七九)三月一〇日の某庄立券文案(壬生家文書)には「浜河流末湖辺生地之空閑年久間」とあり、河流の末の湖沼の周辺に広がる空閑地に位置する。某庄の立券に際してたちばな御園司をはじめとする在地刀禰住人らが署判を加えているが、そのなかに「神崎(村カ)□伴」がみえ、この頃には集落として一応の発達を遂げていた。「妙槐記」正元二年(一二六〇)四月六日条所引の摂津守中原師藤解は文応(一二六〇―六一)改元の際の吉書として出されたものであるが、内容的には平安末期の実情を伝えるとされ、摂津国内の要津の一つである神崎の住人が、社寺や有力貴族らの権力を背景に在家役を逃れ、公事を怠ろうとしていると記される。

永承三年(一〇四八)一〇月一一日紀伊高野山への参詣に向かう関白藤原頼通の一行に、「江口(神カ)崎」の遊女らが待ち焦がれたようにやってきており(宇治関白高野御参詣記)、水運の発達とともに当地は遊女の里としても知られるようになっていった。大江匡房は「遊女記」のなかで、神崎は対岸の蟹島(加島)とともに「天下第一之楽地」であり、人家が軒を連ね、遊女たちが群れをなしていたと記す。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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