日本歴史地名大系 「福堂村」の解説
福堂村
ふくどうむら
文禄の役では当地も徴発をうけ、天正二〇年(一五九二)一月二四日には「ふくど村家数高廿三間此内拾五人加子之高」として「唐へ参」る加子二人の出役が命じられている。また同年と推定される二月一一日には観音寺詮舜が福堂村庄屋・肝煎および惣中に対し、同月二五日以前に加子衆が大津に着くように指示している(芦浦観音寺文書)。慶長期(一五九六―一六一五)という佐和山城付舟帳(同文書)には「ふくど浜」二三艘とあり、内湖から琵琶湖へ広がる湊としての機能があったとみられる。
福堂村
ふくどうむら
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報