福堂村
ふくどうむら
[現在地名]能登川町福堂
乙女浜村の北西、愛知川左岸に立地し、大中の湖に面する。貞和年間(一三四五―五〇)に乙女浜とともに開発されたと伝え(「栗見大宮天神社記」栗見大宮天神社蔵)、地名は福道とも書き、中世に所在した福巍堂から転じたという(輿地志略)。地内の野崎は「万葉集」巻一五の「玉藻刈る処女を過ぎて夏草の野島が崎に廬すわれは」の「野島が崎」にかかわるとする説があり、「八雲御抄」では野島ヶ崎を歌枕としてあげる。「輿地志略」に「福堂村にあり、古歌によめる処の、野島ケ崎これなり、山にあらず、山続きの島にもあらず、野原の浜にして洲崎なり」とある。淡路・安房とする説もあるが、近江の野島ヶ崎を詠んだ歌には「近江路の野島が崎の浜風にいもが結びしひも吹きかへす」(玉葉集)、「近江路や野島が崎の浜風に夕波千鳥立ちさわぐなり」(風雅集)などがある。
文禄の役では当地も徴発をうけ、天正二〇年(一五九二)一月二四日には「ふくど村家数高廿三間此内拾五人加子之高」として「唐へ参」る加子二人の出役が命じられている。また同年と推定される二月一一日には観音寺詮舜が福堂村庄屋・肝煎および惣中に対し、同月二五日以前に加子衆が大津に着くように指示している(芦浦観音寺文書)。慶長期(一五九六―一六一五)という佐和山城付
舟帳(同文書)には「ふくど浜」二三艘とあり、内湖から琵琶湖へ広がる湊としての機能があったとみられる。
福堂村
ふくどうむら
[現在地名]大方町福堂
馬荷村の東北、蠣瀬川上流の山村。入野郷の一村で元禄郷帳・寛保郷帳・天保郷帳は一村として扱っているが、「土佐州郡志」は馬荷村に属する小村とする。「西郡廻見日記」「南路志」にも記載なく、同様に扱っているものと思われる。明治以降も行政的には馬荷村に含まれた。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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