福島城跡(読み)ふくしまじようあと

日本歴史地名大系 「福島城跡」の解説

福島城跡
ふくしまじようあと

[現在地名]福島市杉妻町・舟場町

阿武隈川とあら(須川)の合流点北側に位置する。中世には当地に大仏だいぶつ城・杉妻すぎのめ(杉目)城とよばれる伊達氏の支城が築かれていた。文禄二年(一五九三)頃から蒲生氏・上杉氏の支城となった。延宝七年(一六七九)から天和二年(一六八二)まで本多氏、貞享三年(一六八六)から元禄一三年(一七〇〇)まで堀田氏、同一五年から幕末まで板倉氏の居城となった。

〔中世〕

応永二〇年(一四一三)一二月二九日の足利持氏軍勢催促状(有造館本結城古文書写)に「大仏城」とみえ、関東公方足利持氏は同月二一日に当城から退いた伊達松犬丸(持宗)と懸田播磨入道(定勝)らを攻めるよう白河三河七郎に督促している。持宗は同年四月一八日に挙兵して大仏城に立籠ったため、畠山国詮らが討手として派遣され、一二月二一日兵糧が尽きて落城した(喜連川判鑑)。なお「底倉之記」によれば、応永三年小山若犬丸が挙兵した際に当城に田村庄司(清包)と大館弥三郎(氏忠)が立籠ったという。

天文四年(一五三五)の棟役日記(伊達家文書)信夫大仏しのぶだいぶつ方として六六貫三〇〇文を記載。同七年の段銭古帳には、同じく信夫大仏方として一六郷がみえる。同帳には「御はんの所」のうちとして「すきの目」とあり、また同二二年の晴宗公采地下賜録で、牧野相模に曾根田そねだ郷のうち富塚新左衛門分の「すきのめたてめくり」(杉目館廻)などが与えられて守護不入が認められており、天文の頃までに大仏から杉目に地名が変わったと考えられる。天文頃と考えられる年未詳正月晦日の伊東重信書状(松藩捜古)によれば、重信(安積伊東祐重の子)は高倉近江守が「杉目辺」まで来るならば、相談にのると伝えている。永禄八年(一五六五)隠居した伊達晴宗は米沢から当地に移り、天正五年(一五七七)当地で没した。同二年には当地の晴宗と米沢にいた子息輝宗との間で盛んに手紙のやりとりが行われており、杉目・杉妻などとみえる(「伊達輝宗日記」伊達家文書)


福島城跡
ふくしまじようあと

[現在地名]上越市港町一―二丁目

直江津なおえつ港付近にある近世の典型的な平城。本丸跡には上越市立古城ふるしろ小学校と日本ステンレス株式会社直江津製造所がある。現在、本丸南東隅土塁と隅櫓礎石、土塁の腰巻石などしか城跡の面影をとどめるものはない。城跡の北は日本海、南東は保倉ほくら川、西はせき川、南には外堀を掘り防備を固めた。さらに城の南、外堀より外に寺院および町人町を配置した。

福島築城春日山かすがやま城主堀秀治によって起工されたが、その時期は不明。城郭と城下町の規模が大きいことから、完成には数年を要したと思われる。おそらく慶長四年(一五九九)から翌五年にかけて起こった上杉遺民一揆を鎮圧したのち、まもなくであったろう。福島築城は鉄砲・大砲の使用によって春日山城の機能が失われ、国政の中心地としての適地に大規模な城郭を造る必要性が生じたからであったとみられる。秀治は城の完成しない慶長一一年五月三一歳で没した。そのため嗣子忠俊は一二歳で春日山城主を相続し、翌一二年福島城に移った。「白川風土記」所引の刈羽郡普請割状によると、刈羽郡では五〇軒に一人の割合で人足が徴発されていることからみて、近隣の農民は多数労役に駆り出されたようである。築城開始と同時に家臣団・社寺・町人なども移転を始めたとみられる。

徳川家康は慶長八年江戸幕府を開いた。


福島城跡
ふくしまじようあと

[現在地名]市浦村相内 実取・露草

相内あいうち集落の東南方、十三じゆうさん湖北岸の台地上の実取みとり露草つゆくさにある。城跡の北と西は太田おおた川と相内川沿いの沖積地に接し、東は中里なかさと今泉いまいずみへ続く台地で、南は十三湖岸の海食崖の突端

十三とさ湊に住んでいた藤原秀栄が嘉応年間(一一六九―七一)もしくは文治年間(一一八五―九〇)に築いたといわれる。文保年間(一三一七―一九)の作と伝えられる(偽書説もある)十三新城記(東北大学蔵)によれば「花園帝御宇正和年中安倍政秀(貞季)新築之城郭也(中略)此城の境内各八十余町、池水を掘り、築地を設け、恰かも秦の長城を彷彿す」とあり、十三の藤原氏を破った安東氏が、正和年間(一三一二―一七)に築いたとも考えられる。しかし昭和三〇年(一九五五)の発掘調査によれば、築城は鎌倉時代の末から南北朝時代にかけての頃と推定される。


福島城跡
ふくしまじようあと

[現在地名]八女市本町

八女平野の中央に築かれた近世初期の平城。天正一五年(一五八七)筑後上妻こうづま郡を領した筑紫広門が築いた。はじめ広門が入った矢部やべ川左岸の山下やました(現立花町)が領内の南に偏るため、郡内中央部に新たに築城したとされる。築城当時の規模は本丸が東西三八間・南北二一間、二の丸が東西三五間・南北三二間であったという(筑後将士軍談)。慶長五年(一六〇〇)関ヶ原の戦で広門は石田三成方にくみしたため所領を没収され、一方筑後一国の大名となった田中吉政が柳川城を本城とし、上妻郡では福島城を重視してその拡充を進め、三男康政(吉興)を配置した(「校訂筑後志」など)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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