福島町(読み)ふくしままち

日本歴史地名大系 「福島町」の解説

福島町
ふくしままち

[現在地名]八女市本町もとまち

現八女市域の西部、八女平野の中央部、矢部やべ川とその支流が形成した扇状地に位置する。北は福島村、西は稲富いなどみ村。東西に豊後別路が通るほか、山中さんちゆう街道に通じる北路がある。天正一二年(一五八四)筑後を回復するため出陣した大友勢の攻撃を受けた猫尾ねこお(現黒木町)城主黒木家永は、加勢に駆け付けた龍造寺勢に対して同城に入城せず、上妻こうづま表に在陣して欲しいと要請したため、龍造寺勢は「上妻ノ福島村」に陣を張ったという(北肥戦誌)。同一五年筑後国上妻郡を与えられた筑紫広門が福島城を築城、文禄四年(一五九五)一二月の上妻郡内知行方目録写(筑紫家文書)に「ふくしま村」とみえ、高五〇九石余。これはのちの福島町・福島村を合せた石高であろう。慶長六年(一六〇一)柳川の田中吉政が同城を大改修、三男康政を城主とした。この時期に町屋が整備されたと推定され、戦国期末に市が開かれていた矢原やばら住民の移住によってなった矢原町、在方の宮野みやの村の町屋と住民が移住してなった宮野町などがあった。同七年五月福島の西口屋敷および長野ながの村内五一石余などが筑後国鋳物師大炊介子孫の永代召抱え分として、平井忠三郎に与えられている(「田中吉政印判状」平井文書)。同一〇年には「鋳師平井三郎兵衛」に鍋・釜のほか鋳物商売のため国中在々を往還する際に非分を申掛ける者がいた場合召連れるよう指示している(九月二〇日「田中織部・塙八右衛門・清水権兵衛連署奉書写」同文書)。元和元年(一六一五)の福島城破却後に残った町屋一帯が福島町となり、城下町から在郷町へと変わっていった。


福島町
ふくしまちよう

面積:一七・二二平方キロ

松浦市の北、伊万里いまり湾にある福島を町域とする。北西方にたか島があり、南東は佐賀県伊万里市、北東は同県東松浦郡肥前ひぜん町。福島は東西五・九二キロ、南北七・三二キロで、北部のはつ崎、西部のひつ崎、南東部の矢柄やがら鼻・白岩しらいわ鼻などの岬が発達し、北東にイロハ島、東にぼうざき島、南にカズラ島などの小島が浮ぶ。町域の南部にしら(一七三メートル)しろこし(一五五メートル)愛宕あたご(一〇四・九メートル)などの山嶺があり、河川は井手いで川・うら川などでいずれも流路が短い。県道の喜内瀬きないせ鍋串辻なべくしつじ線が通り、福島大橋によって伊万里市と結ばれる。

喜内瀬にある白山しらやま遺跡・横田よこた遺跡は旧石器時代末期から縄文時代にわたる遺跡とされ、平野ひらの遺跡・矢柄遺跡や土谷どや遺跡などは縄文時代前期・中期の遺跡として知られる。古墳時代では喜内瀬の横島よこしま古墳群があるが、横島はもと島であった。律令制下では松浦まつら郡に属した。一一世紀初めの刀伊の入寇では福島でも女真族の軍船が接岸して襲撃を受けたものと考えられる。モンゴル襲来も同様で、鷹島でその戦死者の霊を祀ったとされる五輪塔などと石材・形式の共通したものが残される。当地も宇野うの御厨のうちで、松浦氏一族の峰披・峰上らの所領となっており、一四世紀には伊万里氏(松浦氏の庶子家)一族の源勝に比定される福島二郎入道如性がみえ、福島に拠点を置いて名字の地とした。


福島町
ふくしままち

[現在地名]徳島市福島一丁目・新南福島しんみなみふくしま一丁目

西を福島川、北を住吉島すみよしじま川、南を新町しんまち川に囲まれ、東は武家地福島と接する町人地。町の成立時期は不詳であるが、寛永三年(一六二六)三月二五日には福島町の開発を奨励した制札が出され(享保六年「紙屋町御判物福島町札之辻町奉行所御制札之写」蜂須賀家文書)、町が整備された。この制札は「一是より南町屋敷望次第可申付候、町奉行方江可申理事、一町筋ハ西川端逆北並に明候而、裏ハ堤限ニ可遣事、一商売之儀者何ニ而も其身心次第ニ可致沙汰之事」の三ヵ条からなり、開発地の特定と町筋の規定、屋敷地や商売に対する優遇が盛込まれている。町の規模は、貞享二年(一六八五)の市中町数並家数(民政資料)によると、長さは新町川沿いの南に折れた区域も含め南北三町四〇間で、家数は四七軒。福島片町と記され、片側町であった。文化五年(一八〇八)には町方で出火の際、それを知らせるための半鐘が当町など八ヵ所に設置されている(元居書抜)。当町に住んだ著名な町人としては、天正一四年(一五八六)紺屋司となった紺屋又五郎の末裔呉服又五郎がおり、同家は町役が免除されていた(「御山下島之事」県立文書館蔵)


福島町
ふくしまちよう

面積:一八七・二三平方キロ

北海道の南西部、渡島半島の南部に位置する。南は津軽海峡を経て津軽半島最北端の青森県東津軽郡三厩みんまや村に対し、北は大千軒だいせんげん(一〇七一・六メートル)を頂点とする山々に囲まれ、東は矢越やごし岬から岩部いわべ(七九四・二メートル)を経てななッ岳(九五六・八メートル)の線をもって上磯かみいそ知内しりうち町に接し、西は白神しらかみ岬より大千軒岳に達する山稜を境に松前町および檜山支庁檜山郡上ノ国町に接している。北緯四一度二八分五二秒、東経一四〇度一五分一八秒、大千軒岳の山懐に抱かれて津軽海峡に面し、東に矢越岬、西に白神岬を配しているので季節風の通過も少なく、冬暖かく夏は涼しい稔り豊かな町である。海岸長汀は二八キロ、リアス式の断崖を含め海岸美を形成し、松前矢越道立自然公園に指定されている。


福島町
ふくしまちよう

[現在地名]丸亀市福島町

城下の最北端に位置し、瀬戸内海に面する。「西讃府志」には「南北福島橋浜手ノ二条各三町五間三尺、材木屋条二町二十八間三尺、東西弁天条三町三十七間、裡町条五十九間」とある。東および南側は西汐入にししおいり川河口部を挟んで西平山にしひらやま町とはま町、西は那珂なか塩屋しおや村。もと中須賀なかすがとよばれ塩屋村と地続きの洲崎で、南対岸の浜町に所属したが、延宝元年(一六七三)一六人の船大工が藩の許可を得て移住したのを契機に町が形成された。貞享元年(一六八四)家が建ち始め、同四年惣井戸が掘られ、元禄元年(一六八八)には弁財天宮が建てられた(同一六年「福島町開地由来書」清水家蔵)


福島町
ふくしまちよう

[現在地名]中央区日本橋三丁目

岩倉いわくら町の東、とおり四丁目南から東の本材木ほんざいもく町四丁目に抜ける街路の北側に位置する片側町。北は榑正くれまさ町、南は下槙しもまき町。もみじ川から西へ入る入堀が元禄三年(一六九〇)に埋立てられ、その跡に起立された(沿革図書)。享保一〇年(一七二五)の分間江戸大絵図に「フクシマ丁」とある。安永三年小間附町鑑によれば小間数は京間三九間一尺五寸五分。うち九間二尺四寸四分は元大工もとだいく町代地となった長崎ながさき町広小路(南大工町)の足地であったことから、同町に課せられた大工三〇〇人の国役を賃銀割で負担。


福島町
ふくしまちよう

上京区千本通下長者町下ル

町の東寄りを南北に千本せんぼん通が通り、北は東西に通る下長者町しもちようじやまち通。平安京大内裏の「内蔵寮」から「糸所」にかけての跡地(「拾芥抄」の宮城指図)

近世の聚楽第じゆらくだい盛時、この地の西に福島正則の居館があり、町名はこれによるという(坊目誌)。寛永一四年(一六三七)洛中絵図では野畑で、承応二年(一六五三)新改洛陽並洛外之図に「ふくしま丁」とみえる。後この呼称が多く用いられたが、寛文五年(一六六五)刊「京雀」と延宝六年(一六七八)刊「京雀跡追」は「福良子ふくらごの町」と記す。


福島町
ふくしまちよう

下京区東洞院五条下ル二丁目

南北に通る東洞院通(旧東洞院大路)を挟む両側町

平安京の条坊では、左京六条三坊三保一四町東南隅・一三町東北隅・六条四坊二保三町西南隅、平安中期以後は楊梅東洞院大路の地。町の東側は白河天皇の六条内裏の地であった(拾芥抄)

寛永一四年(一六三七)洛中絵図に「福嶋丁」とみえ、江戸時代を通じて変わらない。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「福島町」の意味・わかりやすい解説

福島〔町〕
ふくしま

北海道南西端,松前半島にある町。 1944年町制。 55年吉岡村と合体。初め折加内 (おりかない) と呼ばれたが,寛永1 (1624) 年福島と改称。町域の大半は山岳地帯で,津軽海峡に面して平坦地がある。福島漁港は津軽海峡における漁業の根拠地。宅地の造成で農地は減少した。豊富な森林資源を生かし,林業も行われる。南部の吉岡は青函トンネルの北海道側の出入口で,JR津軽海峡線の吉岡海底駅と道立青函トンネル記念館がある。南部の松浦,岩部の海岸は,松前矢越道立自然公園に属する景勝地。国道 228号線が通る。面積 187.25km2。人口 3794(2020)。

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