デジタル大辞泉 「中村勘三郎」の意味・読み・例文・類語
なかむら‐かんざぶろう〔‐カンザブラウ〕【中村勘三郎】
(初世)[1598~1658]山城の人。屋号、柏屋。寛永元年(1624)江戸中橋に江戸で最初の歌舞伎劇場猿若座を創立、のち中村座と改称。以後代々俳優と座元を継承。猿若勘三郎。
(17世)[1909~1988]東京の生まれ。3世中村歌六の三男。本名、
(18世)[1955~2012]東京の生まれ。17世の長男。本名、波野
江戸中村座の座元,歌舞伎俳優。初世から3世までの経歴は,中村家の《家記》と称される書,享保10年(1725)書き上げの《江戸三芝居由緒書》など自己の家を語る粉飾の多い伝承によらざるをえず,検討を要するが,以下一応の通説を記す。(1)初世(1597?-1658・慶長2?-万治1) 中村座の創始者。山城国生れといわれる。初め猿若勘三郎と名のり,1624年(寛永1)江戸中橋に猿若座を創立,これが江戸歌舞伎劇場の起こりという。32年,幕府の御用船安宅(あたけ)丸の入津の際,金の麾(ざい)を頂き船先に立って木遣りの音頭をとった。このとき劇場は禰宜町にあったという。その後51年(慶安4)堺町に移転し,以後,1841年(天保12)まで堺町で興行を続ける。1657年(明暦3)の大火により類焼。5月に京へのぼり禁裏で《猿若》と《新発意太鼓(しんぼちたいこ)》を上演したという。こうした権力者とのかかわりを強調するのが,初世の経歴の特色である。中村家内部の書以外によれば,1651年江戸城に参入して歌舞伎を演じた記録が,初世に関する記述のもっとも早いものである。(2)2世(1647-74・正保4-延宝2) 1657年禁裏で《新発意太鼓》を演じ,中村明石の名をたまわったという。この伝承も示す通り,2世は若衆方を兼ね,特に拍子事が得意であった。寛文(1661-73)・延宝(1673-81)ごろには鶴屋勘三郎とも記されているが,これは彼の紋が舞鶴であることと無関係ではあるまい。中村座の定紋として知られる銀杏の紋は,延宝ごろから使用され始めている。(3)3世(1649-78・慶安2-延宝6) 1674年(延宝2)から5年間,座元を勤めた。(4)4世(1662-1713・寛文2-正徳3) 3世早世後,1678年(延宝6)に勘三郎を襲名,7年間座元を勤めたが,84年(貞享1)中村伝九郎(初世)と改名,役者専門となり,元禄期(1688-1704)を代表する立役となった。(5)5世(1666-1701・寛文6-元禄14) 1684年(貞享1)に勘三郎を襲名し,18年間座元を勤め,元禄歌舞伎の最盛の時代を築きあげた一人である。(6)6世(1688-1757・元禄1-宝暦7) 1701年から50年間座元を勤め,50年(寛延3)8月隠居して2世中村勘九郎と改めた。(7)7世(1717-75・享保2-安永4) 1750年(寛延3)から26年間座元を勤める。(8)8世(1719-77・享保4-安永6) 2世中村伝九郎が1775年勘三郎を相続,座元を3年間勤めた。(9)9世(1765-85・明和2-天明5) 1778年(安永7)から8年間座元を勤める。(10)10世(?-1810(文化7)) 1786年(天明6)に座元となったが,経営不振のため1年で座元を譲った。(11)11世(1766-1829・明和3-文政12) 1787年(天明7)3世中村伝九郎が勘三郎を襲名し,座元を相続,41年間勤めたが,その間不当りと火災により93年(寛政5)から97年まで休座し,都座に櫓を譲った。(12)12世(1800-51・寛政12-嘉永4) 1829年(文政12)5世伝九郎が勘三郎を襲名し,座元をついだが,天保改革により42年(天保13)には堺町より猿若町1丁目へ移転した。その後51年まで座元を勤める。(13)13世(1828-95・文政11-明治28) 1851年(嘉永4)座元を相続したが,幕末から経営不振が続き,75年には3世中村仲蔵に座元を譲った。ここに,江戸歌舞伎中もっとも古い歴史をもち,血縁にのみ名跡を継承させ,座元の地位を保った中村勘三郎の名跡は断絶した。(14)17世(1909-88・明治42-昭和63) 3世中村歌六の三男として生まれ,初世中村吉右衛門と3世中村時蔵を兄としてもつ。前名3世中村米吉,4世中村もしほ。1950年勘三郎を襲名。屋号中村屋。兄吉右衛門と義父6世尾上菊五郎の芸風を受けつぎ,幅広い役柄と技巧的な表現力とをもっていた。(15)18世(1955-2012・昭和30-平成24) 17世勘三郎の長男として生まれ,前名5世中村勘九郎。2005年勘三郎を襲名。なお,14世から16世までの3代は中村勘三郎を名のらなかったが,3世中村仲蔵(14世),5世中村明石(15世),5世明石の子勝子(16世)を代数に数えている。
→中村座
執筆者:近藤 瑞男
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
江戸の歌舞伎(かぶき)劇場中村座の座元、歌舞伎俳優。
(1598―1658)京都の出身で、初め能の狂言師だったが、歌舞伎に転じて猿若(さるわか)(初期歌舞伎における道化役)の役を得意にし、猿若勘三郎と名のったと伝える。江戸に下り、1624年(寛永1)2月、中橋南地(なかはしなんち)に櫓(やぐら)をあげ、これを猿若座(のちに中村座となる)と称した(中村座はのちに弥宜(ねぎ)町、堺(さかい)町、猿若町一丁目へ移転した)。これが、江戸における歌舞伎劇場の最初である。いわゆる江戸三座(中村座・市村座・森田座)のなかでもっとも創設が古く、由緒のある劇場とされて続いたため、その始祖である初世勘三郎は英雄視され、数々の伝説を残した。1632年(寛永9)幕府の御用船安宅丸(あたけまる)が江戸港に入った際、金(きん)の麾(ざい)を拝領して、船先に立ち木遣(きやり)の音頭をとって賞されたという伝説はその一つである。
[服部幸雄]
(1647―1674)初世の子。1657年(明暦3)父とともに上京し、禁裏で『新発意太鼓(しんぼちたいこ)』を演じて、帝(みかど)から「明石(あかし)」の名を賜ったと伝える。若衆(わかしゅ)方で、所作事(しょさごと)を得意にした。
[服部幸雄]
3世以後13世までの各代は、いずれも中村座の座元を勤めた。そのうち、4世(後の初世中村伝九郎(でんくろう))、8世(2世伝九郎)、11世(3世伝九郎)、12世(5世伝九郎)は俳優を兼ねた(「中村伝九郎」の項参照)。幕末からの経営不振と多額の借財に苦しんだ13世勘三郎(1828―1895)が、1875年(明治8)に妹婿の3世中村仲蔵(なかぞう)に座元を譲ったため、江戸歌舞伎最古の由緒を誇った中村座座元中村勘三郎の名義は断絶した。14世(3世中村仲蔵)、15世(5世中村明石)、16世(5世明石の子勝子)は、いずれも中村勘三郎を名のったわけではないが、系譜上、それぞれの代に数えている。
[服部幸雄]
(1909―1988)本名波野聖司(なみのせいじ)。屋号中村屋。3世中村歌六(かろく)の三男。初世中村吉右衛門(きちえもん)、3世中村時蔵の弟。一時「東宝劇団」に入る。1950年(昭和25)1月、4世中村もしほから17世勘三郎を襲名した。6世尾上(おのえ)菊五郎の芸風を慕い、幅広い役柄をこなし、その豊かな表現力には定評があり、とくに江戸風の世話物に他の追随を許さぬ独自の芸境をみせた。1970年日本芸術院会員、1975年重要無形文化財保持者、1980年に文化勲章を受章。
[服部幸雄]
(1955―2012)本名波野哲明(のりあき)。屋号中村屋。17世の長男。2005年(平成17)3月、5世中村勘九郎から18世勘三郎を襲名した。テレビや現代劇などに幅広く活躍したほか、海外公演も精力的に行った。長男は2世中村勘太郎(1981― )、次男は2世中村七之助(しちのすけ)(1983― )である。
[服部幸雄]
『中村勘三郎著『自伝・やっぱり役者』(1976・文芸春秋)』▽『渡辺保著『中村勘三郎』(1989・講談社)』▽『関容子著『中村勘三郎楽屋ばなし』(文春文庫)』
出典 日外アソシエーツ「新撰 芸能人物事典 明治~平成」(2010年刊)新撰 芸能人物事典 明治~平成について 情報
大正・昭和期の歌舞伎俳優 猿若勘三郎・猿若流(邦舞)宗家。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
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…演劇あるいはこれに類する技芸を上演する建物で,大きく分けて演ずる場である舞台と,それを享受する観客席から成る。演劇の場としての劇場の空間構成には,屋外,室内の別を問わず,大別して二つの形態が認められる。すなわち主たる演技空間(舞台)を観客席が取り囲む形のものと,演技空間と観客席が相対するものとである。演劇は原初的には神事,祭事から発生したので,最初期の劇場は必然的に演技空間中心の前者に近い形態をとったと考えられる。…
…歌舞伎の役柄または狂言の名。(1)お国歌舞伎時代に舞台に登場した道化役で,扮装は粗末な青系統の単衣に脚絆ばき,手拭ようの布で頰被りの下人風で現れ,〈魯鈍〉な性格を演じた。舞台の猿若は唐団扇を持ち,床几運びをすることもあり,そこには,猿若の芸能と風流踊との関連が示されていると思われる。猿若の演技としては,写実的物真似芸や雄弁術,獅子踊,木遣音頭などをみせた。また,民俗芸能や大道芸の中にも〈猿若〉と称する道化役がある。…
…歌舞伎俳優。4世中村勘三郎の後名に始まり6世まである。初世が最も名高く,2世がこれに次ぐ。…
…早替りと殺し場が際立つため小芝居向きとして軽視されがちだったが,じつは義理と因果にあえぐ人物を活写した重厚な作。1969年当代最高とされた17世中村勘三郎の二役と8世松本幸四郎(のちの白鸚)の十兵衛による国立劇場の,初演以来の通し上演は,その点でも画期的であった。【河竹 登志夫】。…
… 江戸時代に入ると歌舞伎や人形浄瑠璃の興行は,江戸でも上方でも共通に幕府から興行権を与えられたもののみが行うことができるというきびしい仕組であった。江戸を例にすると宮地芝居を別として,歌舞伎では1714年(正徳4)9月以降幕末まで中村座の中村勘三郎,市村座の市村羽左衛門,森田座の森田勘弥の3人の座元に限って,歌舞伎を興行する権利が官許され,興行権の象徴である〈櫓(やぐら)〉をあげることができた。この3座を〈江戸三座〉と呼んでいる。…
…江戸では,1624年(寛永1)に猿若(中村)勘三郎が幕府に願い出て,中橋での興行を許されたのが座元の始まりで,以後,都伝内,村山又三郎,山村小兵衛(長太夫),河原崎権之助,森田太郎兵衛,玉川新十郎がそれぞれ劇場を立てて座元となった。57年(明暦3)の江戸大火後,中村勘三郎,市村宇(羽)左衛門,森田勘弥,山村長太夫の4人に限り座元として興行することが許されたが,1714年(正徳4)の江島生島事件で山村長太夫が官許を取り消され,山村座は廃絶した。以来,中村座の中村勘三郎,市村座の市村羽左衛門,森田座の森田勘弥の3座の座元に限って幕府は興行権を与え,その世襲を制度として公認した。…
…姓を〈六郷〉と改め,1770年(明和7)11月の森田座からその名が見える。97年(寛政9)中村座の座元,中村勘三郎家から猿若三左衛門(山左衛門か)の名を贈られ,中村座の頭取となる。(3)3世 2世の門弟と思われる。…
※「中村勘三郎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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