江戸時代、各都市に設けられた消防組織、あるいはその組織に属する人。江戸時代初期には消防組織はなく、たとえば江戸城内や武家屋敷に火災が発生すると、幕府の大番組や鉄砲組などが火事場に出動したが、町屋での火災には関与しなかった。1657年(明暦3)の大火は消火・防火制度の発達を促し、組織的な消防制度が実現した。江戸の消防は、武家方の大名(だいみょう)火消、定(じょう)火消、所々火消、方角火消などと、町火消とに大別できる。
[南 和男]
(1)大名火消 江戸初期の防火の役は大名が担当した。最初のころは火災のたびごとに旗本か大名に奉書をもって消火を命じていたようである。大名火消が初めて組織化されたのは1643年(寛永20)といわれる。同年9月、幕府は16人の大名を4組に編成し、1万石につき30人の割合で出動を命じ、1隊は10日交代とした。そして武家屋敷、町屋にかかわりなく、火元に近い大名が出て消火に従ったようである。明暦(めいれき)の大火(1657)以後の消防が主として定火消や旗本によって行われるようになると、持ち場を縮小し、江戸城と藩邸付近の防火だけを勤めるようになった。
(2)定火消 幕府直属の消防隊で、1650年(慶安3)に存在していたというがつまびらかでない。明暦大火の翌1658年(万治1)に幕府は寄合(よりあい)の近藤彦九郎ら4人の旗本に、火消人足を抱えるための役料として三百人扶持(ぶち)を給し、それぞれに与力(よりき)6人、同心30人を付属させた。そして麹町半蔵門(こうじまちはんぞうもん)外、飯田(いいだ)町、市谷佐内坂(いちがやさないざか)、御茶ノ水の4か所に役屋敷を与え、定火消の妻子をはじめ与力・同心や火消人足を屋敷内に居住させて勤務につかせるという、正式の消防隊を置いた。それは武家地だけでなく、一般町屋の消火にもあたらせた。したがってこの定火消は大名火消の後を受け、享保(きょうほう)年間(1716~1736)に町火消が整備されるまでの間、市中の防火に重要な役割を果たした。その後、組数はしだいに増加し1662年(寛文2)には10組となり、1695年(元禄8)には15組となったが、1704年(宝永1)5組減じて10組とし、以後だいたい幕末まで10組であったため、定火消のことを十人火消ともいった。定火消にあたる旗本は3000石以上から4000~5000石の裕福なものといわれ、江戸城を取り巻く10か所に役屋敷が置かれていた。その所在地は八重洲河岸(やえすがし)、赤坂溜池(ためいけ)、半蔵門外、御茶ノ水、駿河台(するがだい)、赤坂門外、飯田橋、小川町、四谷(よつや)門外、市谷佐内坂であった。各屋敷は高さ3丈の火の見櫓(やぐら)を設け昼夜3人の火の番がついて見張り、太鼓(たいこ)、半鐘(はんしょう)、板木(ばんぎ)などを備えていた。各屋敷とも与力6人(一説では10人)、同心30人のほか「がえん」(臥烟)とよばれた火消人足が約100人ほどいた。「がえん」は屋敷内の大部屋(がえん部屋)で常時起臥(きが)し、夜は長い丸太ん棒を枕(まくら)に10~15人が寝る。火災の知らせがあると不寝番が丸太ん棒の端を槌(つち)でたたいて起こしたという。彼らは横暴なため市民の嫌われ者で、また大名火消や町方火消の鳶(とび)人足とも反目することが多かった。1819年(文政2)以後定火消は江戸城の郭内だけの消防にあたり、烈風大火のときだけ町方の消防に出動することとなった。1855年(安政2)2組減じ、1866年(慶応2)さらに4組を減じ、翌1867年には1組を残すまでとなった。
(3)所々火消 1639年(寛永16)森川半弥重政(しげまさ)が江戸城周辺の火災のおりには、紅葉山霊廟(もみじやまれいびょう)を守るようにと命じられたのが所々火消の発端であるという。享保以後では本丸、西の丸、紅葉山、吹上(ふきあげ)上覧所、浅草米蔵、本所米蔵、寛永寺、増上(ぞうじょう)寺、湯島聖堂、本所猿江材木蔵など幕府関係の重要施設に大名を1、2人あて割り当て、出火のおり消防にあたらせた。江戸城をはじめ主要な場所は譜代(ふだい)大名、本所など周辺地域は外様(とざま)大名が任ぜられていた。
(4)方角火消ほか 明暦大火直後の1657年(明暦3)2月、12人の大名を桜田、山手(やまのて)、下谷(したや)の3隊に分けて防火を命じたのが方角火消の最初という。その後1711年(正徳1)春のころ火災が頻発したため、翌1712年2月、幕府は江戸城周辺を5区に分け、3万石以上10万石以下の大名15人に消防にあたるよう命じている。1717年(享保2)さらに整備し、東西南北の四方角に分担すべき場所を改め、新たに大名10人がこれにかわった。定火消の到着後は交替して類焼を防ぐこととしているから、定火消の補助的役割であったといえる。さらに1736年(元文1)12月以後は、大火か、江戸城の風上が火災のおりのほかは出動しなくてもよいこととなった。幕末には2組しか存在していない。なお、大火のおりには老中から奉書(ほうしょ)をもって臨時に大名に消火を命じることがあり、これを奉書火消といった。このほか旗本の飛火防組合といって、番町、小川町、駿河台居住の旗本に防火組合を組織させ、10人または1~15人ずつ組み合わせてそれぞれ家来を出して消防にあたらせたものもある。また近所火消(三丁火消)といって、大名たちが私的に自衛上組織したものがある。各自の屋敷の周囲3丁ないし5丁以内の火災にあたったため、俗に三丁火消とよぶ。
[南 和男]
武家方の消防組織に対し、町奉行(ぶぎょう)の監督下に置かれた町人の消防組織を町火消という。明暦大火の翌年にあたる1658年(万治1)から、町方の自衛消防組織が町々から自発的にあるいは町奉行の命により幾度か試みられた。にもかかわらず実際には長続きせず、ほとんど組織化をみることはなかった。8代将軍徳川吉宗(よしむね)のとき防火対策の全般にわたって大改革が行われ、町奉行大岡忠相(ただすけ)は1718年(享保3)10月各町名主に町火消組合の設置を命じている。しかしこの火消組合の割り方では消防の効果が悪いというので、1720年にふたたび組合の割り直しをして整備したのが「いろは四十七組」である。その組織は隅田(すみだ)川以西の町々をだいたい20町ぐらいあて、地域的に7組の小組に分け、い・ろ・は47文字を組の名とした(へ・ひ・らの文字は語音が悪いのでかわりに百・千・万にかえた)。隅田川を越えた本所、深川には16組を設けた。このとき纏(まとい)や小旗を定め、各組は纏を1本あるいは2本に小旗をもって目印とした。さらに1730年47組を一番組から十番組の大組10組(のち縮小して8組)に整備した(その後、いろは四十七組のほかに「本組」が編成されて三番組に加えられたので、いろは四十八組となる)。本所、深川の16組は上中下の3組に分け、ここに江戸町奉行支配下の消防体制は確立した。このおり、各町の火消人足数を従来の1町30人から15人へと半減し、町々の負担軽減を図った。町火消は町奉行の監督下にあり、火消人足改掛(あらためがかり)の与力・同心が仕事を担当したが、町方の自治組織として経費はすべて町方が負担し、その大部分は人足への諸手当と消防器具に費やされていた。つまり初めは夫役(ぶやく)として町人が火事場に出て消火作業に従った。それは店人足(たなにんそく)とよばれ、大店(おおだな)の奉公人や裏店借(うらだながり)が人足として駆り出されていたのが実態であった。
このような一般町人の素人(しろうと)消防では働きも鈍く、十分な効果があがらなかったため各町では鳶(とび)人足を雇い店人足に混ぜて使うようになった。いったいに江戸時代の消防は破壊消防を主としていたから、鳶以外の人足はあまり役にたたず自然と鳶人足が町火消の主力となった。そして1787年(天明7)には本鳶人足が主として防火にあたり、店人足は大火災のおりにのみ出動することとなった。町奉行所では鳶人足と店人足との比率を半数宛(あて)とするよう望んだが、町々は経費の負担増を嫌い、ついに江戸町中一率とせず各町々の負担能力に応じた現実的な措置を認めた。その結果、たとえば、い組は本鳶103人、店人足393人、せ組は本鳶70人、店人足211人といったぐあいであった。この処置により抱(かかえ)鳶人足が町火消人足の名実ともに中心的な存在となった。なお抱鳶人足には町抱と組合抱とがある。1787年当時、せ組の場合をみると、梯子持(はしごもち)5人、竜吐水(りゅうどすい)持10人は組合鳶人足である。すなわち梯子、竜吐水など組合持の消火道具をもっぱら扱う人足は組合抱鳶人足として、その給金を組合内各町で分担した。残り55人は各町で雇った町抱鳶人足であった。町抱火消人足には各組ごとに人足頭取(とうどり)(頭取)、纏持、梯子(階子)持、平(ひら)(人足)といった階層があった。
1797年(寛政9)10月、270余人の人足頭取が町奉行より公認された。その人選は、形式は町年寄の権限であったが、町奉行所の人足改掛の意向が重視されていた。頭取になると退役するまで終身頭取役を勤めるのが通例である。このほか駈付(かけつけ)人足があり、町抱人足に欠員が生じたときは駈付人足のなかから補充した。その実態は抱町家主の気に入ったものが選ばれており、人足頭取と町内家主とが示談し話がまとまると名主に届け出たのである。町抱人足の地位は株化する傾向が認められる。各町々で負担した消防に関する費用は町入用のなかでも高い率を占め、地主三厄の一つに数えられていた。鳶人足は平時は遊惰(ゆうだ)に流れ、また粗暴なふるまいや任侠(にんきょう)風な点もあって独特な気風をもち、「江戸っ子」的性格を有していた。江戸に限ったことではないが、鳶人足は元来建築業者でありそれが消防の主体であるという矛盾した一面があった。つまり被災地域の広いことはそれだけ彼らの仕事量と収入増とに結び付くわけで、小火より大火を喜ぶ傾向があったことは否定できないところであった。1852年(嘉永5)幕府はこれまであった江戸町内の自衛消防組織を総町一般に実施させた。町火消の到着前に小規模な火災を鎮火するよう各町で諸道具を備えさせたが、過重な負担増もあって1857年(安政4)には廃止した。
京坂地方の町火消もやはり鳶職人が主体であった。大坂では手伝(てつだい)人足の火消組が5組あり、これとは別に各町内の町火消が存在した。甲府では1660年(万治3)初めて消防制が設けられ、1744年(延享1)には町抱の鳶人足を含む火消組が3組ほど成立している。
[南 和男]
『池上彰彦著「江戸火消制度の成立と展開」(西山松之助編『江戸町人の研究 五』所収・1978・吉川弘文館)』▽『藤口透吾編著『江戸火消年代記』(1962・創思社)』▽『魚谷増男著『消防の歴史四百年』(1965・全国加除法令出版)』▽『南和男著「消防」(『講座日本の封建都市 第2巻』所収・1983・文一総合出版)』
江戸時代,各都市に設けられた消防組織。初期の江戸には消防組織はなく,武家屋敷の火災は大名・旗本が,町屋の火災は町人が当たるという方針が基本で,江戸城の火災については老中・若年寄が番方の旗本を指揮して消火に当たった。
江戸最初の大火である桶町の大火の翌々年の1643年(寛永20),幕府は6万石以下の小大名16家を4組に編成し,1万石につき30名の人足を出させて防火に当たらせた。これが大名火消で,それ以前の大火の際,老中奉書によって出動を命じていたのを制度化したものである。また寛永期に始まり元禄期に整備された所々火消も大名火消の一種で,江戸城や幕府関係の重要施設の消火に当たった。そのほか,明暦の大火(1657)の直後から,大火の際,江戸城への延焼を防ぐために出動する方角火消も設けられた。さらに1717年(享保2)幕府は各大名に,藩邸の近隣の町屋の消火への出動を義務づけた。これを各自火消といい,三町火消,近所火消ともよんだ。
明暦の大火により大名火消程度では対応できないことを痛感した幕府は,その翌年の1658年(万治1)定火消を創設した。4名の旗本に火消屋敷を与え,火消人足を抱えるための役料三百人扶持を給し,与力6名,同心30名をそれぞれ付属させた。定火消は以後その数を増し,95年(元禄8)には15組となった。しかし1704年(宝永1)10組に減少され,以後幕末までその規模が続いたので,十人火消ともよばれた。その火消屋敷は八重洲河岸,赤坂溜池,半蔵門外,御茶ノ水,駿河台,赤坂門外,飯田橋,小川町,四谷門外,市谷佐内坂の10ヵ所で,いずれも江戸城の北部と西部にあたっていた。冬の北西の季節風の強く吹くときこの地域から出火すると,大火となって,江戸城に火が及ぶ危険が大だったからである。実際に消火に従事したのは臥煙(がえん)とよばれる火消人足で,平生は火消屋敷内の臥煙部屋とよばれる大部屋に起居し,夜寝るときは細い丸太棒を枕とし,火災の知らせを受けた不寝番が丸太棒の端を槌でたたいて起こしたという。気が荒く,全身に刺青をしたり,ばくちをしたり,銭緡(ぜにさし)の押売りをしたりする無頼の徒が少なくなく,町火消と反目することも多かった。幕末になると定火消はその数を減じ,1855年(安政2)には8組,66年(慶応2)には4組となり,さらに翌年にはわずか1組だけとなった。
町方の消防組織は明暦の大火の翌年の1658年,中橋から京橋までの23町がそれぞれ人足を常雇いし,消火に協力して当たることを約したことに始まる。しかし町方の自衛消防組織である火消組合の設立は容易に進まなかった。1718年町奉行大岡忠相(ただすけ)は,各町名主が火消組合の組織化が防火対策の第一であると答申したことにもとづき,各町名主に町火消設置を命じ,出火の際は風上2町,風脇左右2町,計6町が1町30名ずつの人足を出し,消火に当たることとしたのである。しかしこの火消組合の地域割が適切でなく消防の効率も悪いという理由で,20年あらためて編成替えが行われた。すなわち隅田川以西の町々をおよそ20町ごとに47の小組に分け,いろは47文字を組名とした(へ,ら,ひの3文字は語感が悪いので除外,代りに百,千,万を用いた)。本所,深川は16の小組に分けた。このとき大名火消,定火消にならって各組ごとに纏(まとい)と幟(のぼり)を定め,その目印とさせた。さらに30年,47組を一番組から十番組の大組に分けた。その結果,それまでよりもはるかに多くの人数を火元に動員することが可能となった。なおこのとき,大組1組ごとに大纏が与えられ,小組の纏の吹流しに代えて馬簾(ばれん)をつけさせた。この改正では,各町の負担軽減のため火消人足を30名から15名に半減したが,それでも町火消は9378名という人数だったという。その後,芝二本榎,高輪辺に本組が誕生して三番組に加えられ,小組は48組となり,また38年(元文3)には四番組が五番組に,七番組は六番組に合併されて,大組は8組となった。このころまでに本所,深川の16組も南,中,北の三つの大組に編成された。
町火消は初め武家屋敷の消火活動は許されなかったが,1722年にそれが認められ,32年には浅草米蔵の御蔵火消を定火消に代わって命じられ,さらに47年(延享4)の江戸城二の丸炎上の際は,余燼(よじん)を消すためではあったが江戸城内に入ることを許された。1736年,方角火消は江戸城内からの出火か周辺からの火が及びそうなとき以外は出動が免除され,1828年(文政11)からは定火消も廓内(くるわうち)出火の際のみ出動することになったのは,18世紀中ごろから町火消が江戸の消防組織の中核となったことを示している。その後も町火消は勢力を強め,38年(天保9)および44年(弘化1)の江戸城の火災に大活躍し,黒船来航や戊辰戦争のときにも市内の治安維持に努めるなどの活動を行った。
町火消は町奉行配下の火消人足改の与力・同心が指揮したが,経費はすべて各町が負担した。最初は店(たな)火消ともよばれたように,店借や奉公人が人足として出たが,当時の消火法は,火の手のあがっている家を押しつぶしたり,風下にあたる家を破壊して延焼を防ぐというような破壊消防が主であったから,実際には鳶(とび)人足(鳶)のような専門家以外ほとんど役だたなかった。そのため,18世紀末ごろには町火消の主体は鳶人足に移り,1787年(天明7)町奉行所は鳶人足の数を厳守すれば,店人足は大火以外差し出さずともよいと改めた。鳶人足は各組ごとに頭取(頭(かしら)),纏持,梯子持,平(ひら)(人足)という階層がはっきり存在した。彼らは町内から手当のほか法被(はつぴ),股引(ももひき)等を渡され,平素は土木建築や町内の雑業に従事して生活の保証を得ていた。頭取を中心とする各組の団結は固く,大名火消,定火消との対抗意識も強く,しばしば抗争事件を起こすなどして,その意地・張りなどの独特の気風から,幕末には〈江戸っ子〉の代表の一つとされた。
→火事
執筆者:池上 彰彦
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江戸時代の各都市に設けられた消防組織。鳶(とび)の者による破壊消防が中心だった。江戸には武家の大名火消,幕府の定(じょう)火消,町方の町火消があり,享保期までに制度が完成した。大坂では1697年(元禄10)に市中を5地区(印)にわけ,30町内外を基準に21番組が設定された。各町は人足を指揮する印頭町(しるしがしらちょう)と,全体の代表として業務を担う火消年番町を交替で選出,消火にあたった。京都では奉行所与力のもと,火元2町四方の町より4人ずつ出動した。甲府では1660年(万治3)に火消人足600人を設け,代官・町奉行を頭として編成,1744年(延享元)には鳶の者を人足としてくみこみ,三つの町組による組織に改変された。
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… 消防や防火対策については,江戸時代以前については必ずしもはっきりしないが,本格的な防火対策や消防組織がつくられるのは江戸時代にはいってからである。江戸幕府は,最初軍役の一つとして大名・旗本に消火を命じたが,やがて定火消・大名火消の制度を整えた。これは江戸城防火を目的とする組織であったが,江戸の発展とともに,1718年(享保3)には町火消を制度化し,江戸市域全体の消防組織がいちおう整った。…
…火災のときに限って用いられる非常用の服装。古くこうした特殊な装束はみられなかったが,江戸時代になって都市が発達し,大きな火災がしきりに起こるようになり,これに対して特別な防火・消火手段が必要になったことと,太平な世がつづいてすべての武装が全般的に華美となり形式化していったことから,このような特殊な服装が生まれたものであろう。
[火消の火事装束]
江戸の町方で消火を専業とした町火消,または大名にかかえられていた大名火消の火事装束は,いずれにしても消火・防火ということを職業とする人たちの作業服であるから,構造はひじょうに機能的にできている。…
…また二条,大坂,駿府,甲府などの要地にも目付として出張し,遠国役人の能否を監察した。そのほか江戸市中に火災のあるときは火勢を視察して報告し,目付とともに大名課役の消防夫(大名火消)を指揮し,また定火消の火事場における働きのいかんを監察し上申した。本来は武功第一の者の務める役柄であり,戦場の標識として四半五之字の指物を用いた。…
…江戸の火の見櫓は,1658年(万治1)定火消の制が発足し,火消屋敷に建てられたのに始まる。高さ3丈(約9m),外部の蔀(しとみ)は白木生渋(きしぶ)塗であったが,それは定火消屋敷に限られ,続いて設けられた大名火消屋敷や町の木戸の火の見櫓はすべて黒塗で,櫓の高さも定火消のそれより低くなければならなかった。…
…翌々年,隅田川には大橋(両国橋)がかけられ,本所・深川にも町地が拡大した。大火は江戸の火消制度にとっても大きな転機となり,翌年定火消が設けられた。出火の際,由井正雪の残党の所業という流言がとび,事実,大火の際放火犯20名が捕らえられ処刑されているが,この時期の江戸はまだかなり不安定な状況もあった。…
※「火消」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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