秋野不矩(読み)アキノ フク

20世紀日本人名事典 「秋野不矩」の解説

秋野 不矩
アキノ フク

昭和・平成期の日本画家 京都市立芸術大学名誉教授。



生年
明治41(1908)年7月25日

没年
平成13(2001)年10月11日

出生地
静岡県磐田郡二俣町(現・天竜市)

本名
秋野 ふく

学歴〔年〕
静岡女子師範〔大正15年〕卒

主な受賞名〔年〕
新文展特選〔昭和13年〕「紅裳」,上村松園賞(第1回)〔昭和26年〕「少年群像」,京都市文化功労章〔昭和53年〕,京都府美術工芸功労章〔昭和56年〕,天竜市名誉市民〔昭和58年〕,毎日芸術賞(第27回)〔昭和60年〕,京都美術文化賞(第1回)〔昭和63年〕,中日文化賞(第43回)〔平成2年〕,文化功労者〔平成3年〕,日本芸術大賞(第6回)〔平成5年〕,京都府あけぼの賞〔平成8年〕,文化勲章〔平成11年〕

経歴
昭和2年教職を辞して、石井林響西山翠嶂の指導を受け画家を目指す。5年「野を帰る」で帝展初入選。13年第2回新文展で「紅裳」が特選となり無監査。戦後23年山本丘人、上村松篁らと創造美術協会(のち創画会)を創設、日本画の革新を目指した。24年京都市立美術大学(のち京都市立芸術大学)助教授、のち教授となり、48年退官。この間、37年インドのビスババーラティー大学に客員教授として招かれ、1年間滞在。以来数回インドを訪れ、その印象をもとにした作品を発表。インドの大地と人々の暮らしを力強い筆と鮮やかな色彩で描き、現代日本画に新境地を開いた。平成10年故郷の静岡県天竜市に秋野不矩美術館が開館。11年文化勲章を受章。他の代表作に「砂上」「雨期」「少年群像」「ガンガー」「紅裳」、画文集に「バウルの歌」、画集に「インド」など。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「秋野不矩」の意味・わかりやすい解説

秋野不矩
あきのふく

[生]1908.7.25. 静岡,二俣
[没]2001.10.11. 京都
日本画家。本名ふく。 1926年静岡県女子師範学校卒業。 27年石井林響のもとで本格的な創作活動に入る。 31年『野を帰る』で帝展に初入選。 38年『紅裳』で新文展特選。 48年,日展,帝展,新文展の系列から離別して創造美術協会 (現・創画会) の結成参画。生活感あふれる身の回りの人々を題材とした。 49年京都市立美術大学 (現・京都市立芸術大学) 助教授となり,51年上村松園賞受賞。 62年インドのビシュヌ・バーラティ大学に客員教授として1年間滞在したことがインドとの運命的な出会いとなった。 64年の『インド女性』をはじめ,インドの古典的な神秘性のなかに近代的な感覚を盛込んだ風物画を描いた。 78年京都市文化功労賞,81年京都府美術工芸功労賞を受賞。 99年文化勲章を受章。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「秋野不矩」の解説

秋野不矩 あきの-ふく

1908-2001 昭和-平成時代の日本画家。
明治41年7月25日生まれ。石井林響(りんきょう),西山翠嶂(すいしょう)に師事。昭和5年帝展に初入選。23年創造美術の結成に参加。37年から1年間インドに滞在,以後,インドを主題とした作品を制作する。京都市立芸大教授。創画会会員。平成11年文化勲章。平成13年10月11日死去。93歳。静岡県出身。静岡女子師範卒。本名はふく。作品に「砂上」「紅裳」など。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

367日誕生日大事典 「秋野不矩」の解説

秋野 不矩 (あきの ふく)

生年月日:1908年7月25日
昭和時代;平成時代の日本画家。京都市立芸術大学教授
2001年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

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