李立三(読み)リリッサン

デジタル大辞泉 「李立三」の意味・読み・例文・類語

り‐りっさん【李立三】

[1899~1967]中国政治家湖南省醴陵れいりょう県の人。五・三十事件のとき、上海総工会委員長。1928~1930年、中国共産党指導者として極左路線を実行批判を受けて失脚しモスクワに赴く。人民共和国成立後、労働部長・党中央委員などを歴任リー=リーサン。

リー‐リーサン【李立三】

りりっさん(李立三)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「李立三」の意味・わかりやすい解説

李立三
りりっさん / リーリーサン
(1899―1967)

中国の政治家、労働運動指導者。湖南省出身。1920年、留法勤工倹学会の一員としてフランスに留学周恩来らと中国共産党パリ支部を結成、1922年帰国。1925年の五・三○事件では上海(シャンハイ)総工会の委員長として運動を指導した。そのあと中華全国総工会代表としてモスクワのプロフィンテルン大会に出席し、翌1926年帰国。1927年、中共第5回大会で中央委員、ついで南昌蜂起(なんしょうほうき)に参加、翌1928年から上海で活動、中共の中心的指導者として、都市の武装蜂起を重視する極左路線を実行し、大きな犠牲を出すに至った。このいわゆる李立三路線はコミンテルンや王明らの批判を受け、モスクワに呼ばれて1946年まで学習、その間、唯真という筆名で多くのマルクス主義文献を翻訳、1945年の中共第7回大会では中央委員に選出された。中国に戻って1948年中華全国総工会副主席となり、中華人民共和国成立とともに政務院労働部長に就任した。しかし、労働組合指導で誤りを犯したとして、1954年辞職し、1956年の中共第8回大会では「主観主義、派閥主義の誤りを犯した」と自己批判した。この大会で中央委員には再選され、1959年党中央工業工作部副部長についたが、文化大革命の初期にまた批判を受け、失意のうちに死去した。

安藤彦太郎

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「李立三」の意味・わかりやすい解説

李立三
りりっさん
Li Li-san

[生]光緒25(1899).湖南,醴陵
[没]1967.6.22.
中国共産党の一時期の指導者。 1919年勤工倹学生の一人としてフランスに渡り,趙世炎らと労働学会を組織。 21年帰国後共産党に加入。 25年の五・三〇事件の際は上海総工会委員長として活動した。 27年五全大会で中央委員となり,南昌暴動に参加。 28年六全大会で中央政治局委員,宣伝部長となって党の実権を握り,全国の各中心都市での武装蜂起をただちに組織するという冒険的な計画を主張して都市工作を重視し,30年6月「新たな革命の高まりと1省または数省における首戦勝利」という決議を政治局に採択させた。これがいわゆる李立三路線 (あるいは第2次極左路線) である。この都市武装蜂起重視に基づく長沙暴動は大きな犠牲を生み,コミンテルンから極左冒険主義として批判され,31年1月の6期四中全会で陳紹禹,秦邦憲らに党の指導権を奪われた。その後,査問のためモスクワに召喚され,15年間滞在。 45年の七全大会で中央委員に選出され,48年中華全国総工会副主席となり,49年中華人民共和国成立とともに政務院労働部長に就任。 56年の八全大会でも中央委員に選ばれ,30年当時の主観主義,セクト主義と 50年当時の総工会における主観主義を自己批判した。 67年まで中央委員,華北局書記,人民政治協商会議常務委員であった。

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改訂新版 世界大百科事典 「李立三」の意味・わかりやすい解説

李立三 (りりつさん)
Lǐ Lì sān
生没年:1899-1967

中国の革命家。湖南省人。1919年フランスに留学,周恩来らと共産主義青年同盟を組織,21年帰国後入党,主に労働運動の指導を担当した。1930年中国共産党政治局委員として実質上党最高指導者となったが,〈李立三コース〉と称される極左主義の誤りを批判され,31-46年までモスクワに滞在した。この間〈唯真〉の筆名でマルクス=レーニン主義文献を多数翻訳した。帰国後中央人民政府の労働部部長,政治局委員などの要職についたが,文化大革命初期に失意のうちに死去した。
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百科事典マイペディア 「李立三」の意味・わかりやすい解説

李立三【りりつさん】

中国共産党初期の指導者。湖南省の人。1919年フランス留学,帰国後1921年入党。1925年の五・三〇運動などを指導し1927年党中央委員。南昌蜂起後,1928年宣伝部長となり実権を把握。李立三コースと呼ぶ極左冒険主義を推進。1930年長沙ソビエト政権の失敗でソ連へ召喚された。解放後はセクト主義,主観主義として批判され文化大革命の際に迫害死したと伝える。
→関連項目陳紹禹

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「李立三」の解説

李立三(りりつさん)
Li Lisan

1899~1967

中国共産党の初期の指導者。湖南省醴陵(れいりょう)県の人。安源炭鉱ストライキ,五・三〇事件などを指導し,南昌暴動に参加した。1928年の中国共産党6全大会で宣伝部長となり,党の実権を握り,一般に李立三コースと呼ばれる極左冒険主義の政策を実施した。そのため党中央から退けられ,長くソ連にあった。49年中華人民共和国成立とともに労働部長となったが,のち主観主義,セクト主義者として批判された。文化大革命で再び批判されて自殺した。80年名誉回復。

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世界大百科事典(旧版)内の李立三の言及

【中国共産党】より

… 30年,農村革命根拠地は11ヵ所,労農紅軍は10万を数え,白色区(国民党支配地域)の組織も回復,発展した。世界恐慌と軍閥抗争による国民政府の動揺を,革命情勢の到来と過大評価した中共は,李立三の主導下に党と紅軍の総力を動員して,7月から9月にかけ大都市占拠をめざした無謀な武装蜂起と作戦を強行して失敗した(第2次極左路線)。中共がこれを李立三の戦術的誤謬として処置したのに対し,コミンテルンは右翼的路線の誤りだとして中共指導部の改組に乗り出した。…

※「李立三」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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