稲生村(読み)いのうむら

日本歴史地名大系 「稲生村」の解説

稲生村
いのうむら

[現在地名]鈴鹿市稲生町

白子寺家しろこじけ村の西方、道伯どうはく台地の東端にあり、南方なかノ川にかけて水田が広がる。西より西村にしむら成光なりみつ塩屋しおやの三集落があり、成光が本郷にあたる。「和名抄」の奄芸郡塩屋郷の地に比定される。式内伊奈冨いのう神社の所在地として早くから知られた。「神鳳鈔」に「西村御薗一石五斗。六、九、十二月」とあるのは村域西部の西村の地とされる。応安元年(一三六八)九月八日付伊勢栗真庄内熊野田畠注進状(熊野夫須美神社文書)に「伊勢国栗真庄内熊野田三町並畠五段事」とあり、この田三町に続いて、「成光名内畠五段 段別ニ百文つつの草切在之、五百文取也(下略)」とある。この成光名は成光集落のことをさすのであろう。室町時代は和田義盛子孫と伝える者がこの集落の南方に稲生城を構え、文明一六年(一四八四)の伊奈冨神社棟札には、地頭として和田姓三人(稲生氏とも称する)の名がみえる。

稲生村
いのうむら

[現在地名]西区稲生町・江向えむかえ町・又穂またほ町・香呑こうのみ町・貝田かいだ町・天塚あまづか

矢田やだ川が庄内川に合流する地点の南にあり、南は児玉こだま村である。貞治四年(一三六五)の足利義詮安堵状(名古屋市博物館蔵)に「尾張国山田庄内水田弐町 在稲生郷地頭免田内」とみえ、室町中期の禅僧万里集九が光音こうおん(現北区)を詠んだ七絶に「尾之山田稲生庄光音寺」とみえ、また稲生村から名塚なづか村にかけての地を稲生原とよび、当村の妙本みようほん寺は名塚村の宗円そうえん寺、真福寺しんぷくじ村の新福しんぷく寺がともに稲生山と称することから考えて、光音寺こうおんじ村から稲生村・名塚村・真福寺村にかけての地が中世には稲生とよばれる地であったようである。

稲生村
いのうむら

[現在地名]平内町稲生

東は山を隔てて田沢たざわ村支村野内畑のないはた、南は茂浦もうら村支村浦田うらた、西は陸奥湾に面し、北は夏泊なつどまり崎に続く。正保二年(一六四五)の津軽郡之絵図ではこの地から大間おおま(夏泊崎)一帯は「村」とあってアイヌの居住地であった。元禄二年(一六八九)の黒石平内巳年郷帳(市立弘前図書館蔵)伊野いの村とあり、田方のみで高一〇・二五石、天保郷帳ではわずか〇・七石とある。

寛政七年(一七九五)の「津軽の奥」に「稲生いなをとて田づらに人おりたち、屋は三ばかり見えたり」とあり、嘉永三年(一八五〇)の「東奥沿海日誌」に「伊野村人家三軒。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報